08-02 黄初六年令

08-02 黄初六年令  黄初六年の令

【解題】
黄初六年(二二五)、雍丘王としてその国内に発布した令。文帝曹丕の来訪を受けて来し方を振り返り、受けた手厚い恩恵に報いようとする意志を表明する。『文館詞林』巻六九五、『藝文類聚』巻五十四所収。『文館詞林』は「自誡令」として収載する(「誡」字、もと「試」に作るのを、孫星衍『続古文苑』巻五に従って改める)。

令。吾昔以信人之心無忌於左右、深為東郡太守王機防輔吏倉輯等枉所誣白、獲罪聖朝。身軽於鴻毛、而謗重於太山。頼蒙帝王天地之仁、違百寮之典議、舎三千之首戻、反我旧居、襲我初服、雲雨之施焉有量哉。反旋在国、揵門退掃、形景相守、出入二載。機等吹毛求瑕、千端万緒、然終無可言者。及到雍、又為監官所挙、亦以紛若、於今復三年矣。然卒帰不能有病於孤者、信心足以貫於神明也。昔雄渠李広、武発石開、鄒子囚燕、中夏霜下、杞妻哭梁、山為之崩、固精誠可以動天地金石、何況於人乎。
今皇帝遙過鄙国、曠然大赦、与孤更始。欣笑和楽以歓孤、隕涕咨嗟以悼孤。豊賜光厚、資重千金、損乗輿之副、竭中黄之府、名馬充廏、駆牛塞路。孤以何徳、而当斯恵、孤以何功、而納斯貺。富而不吝、寵至不驕者、則周公其人也。孤小人爾、深更以栄為戚。何者、将恐簡易之尤出於細微、脱爾之愆一朝復露也。故欲修吾往業、守吾初志。欲使皇帝恩在摩天、使孤心常存入地。将以全陛下厚徳、究孤犬馬之年。此難能也、然孤固欲行衆人之所難。詩曰、徳輶若毛、民鮮克挙之、此之謂也。故為此令、著於宮門、欲使左右共観志焉。

令。吾は昔 人を信ずるの心を以て左右を忌むこと無きも、深く東郡太守王機・防輔吏倉輯等の枉(ま)げて誣白する所と為り、罪を聖朝に獲たり。身は鴻毛よりも軽く、而して謗(そし)りは太山よりも重し。頼(さいはひ)に帝王が天地の仁を蒙りて、百寮の典議に違ひて、三千の首戻を舎(ゆる)して、我を旧居に反し、我を初服に襲(よ)らしめ、雲雨の施しに焉んぞ量(かぎ)り有らんや。反旋して国に在り、門を揵(とざ)して退き掃(はら)ひ、形景相守り、出入すること二載なり。機等は毛を吹きて瑕(きず)を求むること、千端万緒、然して終に言ふ可き者無し。雍に到るに及んで、又監官の挙ぐる所と為り、亦た以て紛若たること、今に於いて復た三年なり。然して卒(つひ)に孤に病有りとすること能はざるに帰するは、信心の以て神明を貫くに足ればなり。昔 雄渠・李広は、武発して石開き、鄒子は燕に囚はれて、中夏に霜下り、杞妻は梁を哭して、山は之が為に崩るるは、固より精誠の以て天地金石を動かす可くして、何ぞ況んや人に於いてをや。
今 皇帝は遙かに鄙国に過(よぎ)り、曠然として大赦し、孤と更始す。欣笑和楽して以て孤を歓ばしめ、隕涕咨嗟して以て孤を悼(あは)れむ。豊賜は光厚にして、資重は千金、乗輿の副を損なひ、中黄の府を竭くして、名馬は廏に充ち、駆牛は路に塞(み)つ。孤は何の徳を以てか、斯の恵みに当たり、孤は何の功を以てか、斯の貺(たまもの)を納れん。富みて吝ならず、寵至りて驕らざるは、則ち周公 其の人なり。孤は小人なるのみなれば、深く更に栄を以て戚(うれ)へと為す。何となれば、将に恐らくは簡易の尤 細微より出で、脱爾の愆 一朝復た露(あら)はれんとすればなり。故に吾が往業を修め、吾が初志を守らんと欲す。皇帝が恩をして天に摩するに在らしめ、孤が心をして常に地に入るに存せしめんと欲す。将に陛下の厚徳を全うするを以て、孤が犬馬の年を究めん。此れ能くすること難きなるも、然れども孤は固より衆人の難しとする所を行はんと欲す。詩に曰く、「徳の輶(かろ)きこと毛の若きも、民に克(よ)く之を挙ぐるもの鮮(すく)なし」とは、此の謂なり。故に此の令を為して、宮門に著し、左右をして共に志を観ぜしめんと欲す。

【通釈】
令。自分は昔、人を信じる心により、左右の者たちを忌み嫌うことはなかったが、東郡太守の王機や防輔吏の倉輯らからひどく讒言されて、聖なる朝廷に罪を得た。この身は鴻(おおとり)の羽毛よりも軽いのに、受けた誹謗中傷は泰山よりも重い。幸いにも、天地にも等しい帝王の仁愛により、百官の典範に則った議論に背いて、首領級の大罪を赦していただき、私を旧居に戻し、元の輿服を与えてくださって、賜った恩恵は誠に計り知れないものである。国に帰ってからは門を閉ざして身辺を清め、身体と影とが見守りあう孤独な日々を二年間送った。王機らは毛を吹いて疵を求め、あれこれ粗探しをしたけれども、結局言うべきことは見つからなかった。雍丘に着任すると、また監官に罪を挙げられて、これにもあれこれと対応し、今に至るまでもう三年が経過した。けれども、結局わたくしについて罪過を挙げることができなかったのは、誠の心は神霊にも十分に届いたということだ。昔、熊渠や李広は、その武勇の発揮により石さえ開き、鄒衍は燕に囚われて嘆くと、夏のさなかに霜が降り、杞梁の妻は夫の死を哭して、そのために山は崩落したというが、もとより真の心は天地や金石をも動かせるのであって、まして人に対しては言うまでもないことだ。
今 皇帝陛下ははるばるこの小国を訪ねてきてくださって、寛大にもこれまでのことをお赦しくださり、わたくしと新たにことを始めようとおっしゃる。うれしいことに、和やかにわたくしと談笑され、また、わたくしを哀れに思い、涙を落として嘆いてくださった。豊富な品々をたっぷりと賜り、拝受した物資は千金に値し、それらは天子の乗り物の添え馬を削り、宮中の宝物倉庫を空にして分け与えてくださったもので、おかげで名馬が厩に満ち、勢いづいた牛の群れが路上を塞ぐこととなった。わたくしは何の徳があってこの恵みを受けるに値するのか。わたくしは何の功績があってこの賜りものを拝受するのか。富を得て物惜しみせず、寵愛を受けて驕らないのは、周公旦その人である。わたくしは小人物であるから、心の底からなおさら受けた栄耀に恐れおののく。なぜならば、細かいところで大雑把にふるまってしくじり、粗忽という罪が突然また明るみに出るかもしれないからだ。それゆえ、わが往年の業務を修め、わが初志を貫徹したい。皇帝陛下からの恩恵は天に届くほど、わたくしの心は常に地中に没するほどだ。これから陛下の厚き徳に全面的に応えることで、わたくしの犬馬に等しい生涯を終えようと思う。このことは実行が困難だが、しかしわたくしはもとより衆人が困難とするところを行いたい人間だ。詩(『詩経』大雅「烝民」)にいう「徳は毛のように軽いのに、それを挙げることができる者はほとんどいない」とはこのことである。それゆえ、この令を作って宮門に掲げ、周りの者たちに、共にわが志をよく見てもらいたい。

【語釈】
○東郡太守王機 「東郡」は、今の河南省濮陽市と山東省聊城市にまたがる地域。その管轄下にある県のひとつに鄄城がある(呉増僅撰・楊守敬補正『三国郡県表附考証』を参照)。曹植は、黄初二年(二二一)、鄄城侯に封ぜられ、翌年、鄄城王に立てられ、雍丘王に遷される黄初四年(二二三)までこの地にあった。「王機」は、西晋王朝成立の元勲であり、曹魏の国史『魏書』の撰者である王沈の父。津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』三八号二〇〇五年一二月)の注(22)を参照。
○防輔吏倉輯 「防輔」は、魏王朝が王侯の動静を見張るために置いた官。『三国志(魏志)』巻二十・武文世王公伝の裴松之注に引く『袁子』に、魏の王侯は行動が制限されていたことを述べた上で、「又為設防輔監国之官以伺察之(又為に防輔監国の官を設け以て之を伺察せしむ)」と。「倉輯」という人物については未詳。
○枉所誣白 「枉」字、底本は「任」に作る。今、孫星衍『続古文苑』巻五の修正に従う。
○身軽於鴻毛、而謗重於太山 「鴻毛」は、おおとりの羽毛。非常に軽いものの喩え。両句に類似する表現として、『戦国策』楚策四に「国権軽於鴻毛、而積禍重於丘山(国権は鴻毛よりも軽く、而して積禍は丘山よりも重し)」、司馬遷「報任少卿書」(『文選』巻四十一)に「人固有一死、或重於太山、或軽於鴻毛(人には固より一死有り、或いは太山よりも重く、或いは鴻毛よりも軽し)」と。
○頼 幸いなことに。
○帝王天地之仁 皇帝の仁徳を天地になぞらえる例として、「上責躬応詔詩表」(04-19-0)に、「伏惟陛下徳象天地(伏して惟ふに陛下 徳は天地に象る)」云々と。
○百寮之典議 「百寮」は、百僚に同じ。すなわち百官。『尚書』皋陶謨に「百僚師師、百工惟時(百僚は師師し、百工は惟れ時にす)」と。底本は「百師」に作る。今、『藝文類聚』『文館詞林』によって改める。「典議」は、典範に則った議論をいうか。
○三千之首戻 「三千」は、様々な刑罰の総数。『尚書』呂刑に、入れ墨、鼻切り、足切り、宮刑、死刑の五つを併せて「五刑之属三千(五刑の属は三千)」と。「首戻」は、首領級の罪。
○旧居 ここでは鄄城を指す。前掲注「東郡太守王機」を参照。
○初服 もとの衣服。『楚辞』離騒に「進不入以離尤兮、退将復修吾初服(進みて入れられず以て尤に離(かか)れば、退きて将に復た吾が初服を修めんとす)」と。曹植「七啓」(08-06)にも「願反初服、従子而帰(願はくは初服に反り、子に従ひて帰せんことを)」と。ここでは、「服」を輿服と捉え、もとの身分相応の待遇と解釈しておく。
○雲雨之施 皇帝から下される恩沢をいう。『易』乾卦、文言伝に「時乗六龍以御天(進不入以離尤兮、退将復修吾初服)也。雲行雨施、天下平也(時に六龍に乗りて以て天を御するなり。雲行き雨施して、天下平らかなり)」と。
○形景相守 自身の身体と影とが見守りあう。孤独な自粛生活をいう。「景」は、影に同じ。「上責躬応詔詩表」(04-19-0)に「形景相弔」との類似句が見える。
○出入二載 「出入」は、日常生活を送ることをいうか。用例として、『尚書』冏命に「出入起居、罔有不欽(出入起居に、欽まざる有ること罔し)」と。「二載」は、東郡太守王機らに誣告された罪から解放されて鄄城王に復し、雍丘王に遷るまでの二年間をいう。
○吹毛求瑕 血眼になって小さな過失を暴き立てようとする。古代からのことわざ。一例を挙げるならば、これを反転させた句が、『韓非子』大体篇に「不吹毛而求小疵(毛を吹きて小疵を求めず)」と見えている。
○千端万緒 些末な言いがかりの繁多なことを形容する常套語。この語も諸書に散見する。
○到雍 雍丘(今の河南省開封市杞県)の王として当地に着任すること。
○監官 王侯の動静を見張る役人。前掲注「防輔吏倉輯」に引いた『袁子』を参照。また、黄初二年、臨淄侯の曹植を罪に陥れた「監国謁者潅均」(『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝)もこれである。
○紛若 盛んなさま。もし、『易』巽卦、九二の爻辞にいう「巽在牀下。用史巫紛若。吉无咎(巽(したが)ひて牀下に在り。史巫を用ふること紛若たれば、吉にして咎无し)」を踏まえるとするならば、言いがかりをつけられた側の対応として、盛んに慎み深い態度を示すことをいう。
○於今復三年矣 「今」とは、この令が示された黄初六年(二二五)。そこから三年を遡れば、雍丘王となった黄初四年に重なる。
○有病於孤 「有病」は、欠点ありと指摘すること。「孤」は、王侯の自称。
○信心足以貫於神明 「信心」は、誠の心。「神明」は、天地の間にある神霊の総称。『易』繋辞伝下に「陰陽合徳而剛柔有体、以体天地之撰、以通神明之徳(陰陽 徳を合して剛柔に体有り、以て天地の撰を体し、以て神明の徳に通ず)」と。一句に類似する表現として、曹植「鼙舞歌・精微篇」(05-43)に「精微爛金石、至心動神明(精微は金石をも爛(とか)し、至心は神明をも動かす)」と。
○雄渠李広、武発石開 「雄渠」は、西周時代の楚の君主、熊渠。雄は、熊と音が同じ。『韓詩外伝』巻六に「楚熊渠子夜行、見寝石以為伏虎、彎弓而射之、没金飲羽。下視知其為石。石為之開、而況人乎(楚の熊渠子 夜行して、寝石を見て以て伏虎と為し、弓を彎きて之を射れば、金を没し羽を飲む。下視して其の石為るを知る。石も之が為に開く。而して況んや人をや)」と。劉向『新序』雑事篇にもほぼ同じ記述が見えている。「李広」は、前漢時代の将軍。『史記』巻一〇九・李将軍列伝に「出猟、見草中石、以為虎而射之、中石没鏃、視之石也(猟に出で、草中の石を見、以て虎と為して之を射れば、石に中して鏃を没す。之を視れば石なり)」と。「武発石開」は、班固「幽通賦」(『文選』巻十四)にいう「養流睇而猨号兮、李虎発而石開(養(由基)流睇して猨号し、李(広)虎発して石開く)」に倣った可能性がある。
○鄒子囚燕、中夏霜下 「鄒子」は、戦国時代の思想家、鄒衍。罪もないのに燕に拘束された鄒衍が天を仰いで慨嘆すると、そのため天は夏の五月に霜を降らせたという故事は、王充『論衡』感虚篇に引く「伝書」や、『淮南子』佚文(『後漢書』劉瑜伝の李賢注、『太平御覧』巻十四に引く)に見えている。前掲注に示した「鼙舞歌・精微篇」にも「鄒衍囚燕市、繁霜為夏零(鄒衍は燕の市に囚へられ、繁霜 夏の零と為る)」と。
○杞妻哭梁、山為之崩 「杞妻」は、斉の大夫、杞梁殖の妻。戦死した夫を城下に哭し、そのため城壁が崩れたという故事は、劉向『列女伝』貞順篇、『説苑』善説篇、『論衡』感虚篇に見えている。前掲「鼙舞歌・精微篇」にも「杞妻哭死夫、梁山為之傾(杞の妻は死せし夫を哭し、梁山は之が為に傾く)」と。
○固精誠可以動天地金石、何況於人乎 「精誠」は、真心。底本は「精神」に作る。今『文館詞林』によって改める。『荘子』漁夫篇に「真者、精誠之至也。不精不誠、不能動人(真は、精誠の至れるなり。精ならず誠ならざれば、人を動かす能はず)」と。類似表現として、『新序』雑事篇に「熊渠子見其誠心、而金石為之開、況人心乎(熊渠子見其誠心、而金石為之開、況人心乎(熊渠子 其の誠心を見せて、而して金石之が為に開く、況んや人心をや)」と。前掲「鼙舞歌・精微篇」にも「精微爛金石、至心動神明(精微は金石をも爛れしめ、至心は神明をも動かす)」と。
○鄙国 自国を謙遜して言う。
○与孤更始 「孤」は、王侯の自称。「更始」は、過去を無に戻し、新たな状況を作り出す。たとえば、『漢書』巻六・武帝紀に引く詔に「其赦天下、与民更始(其れ天下を赦し、民と更始せん)」と。
○光厚 広大で豊かな厚みがある。
○資重 物資。用例として、『後漢書』巻九〇・鮮卑伝に、中郎将張国が鮮卑を撃破して「獲其資重二千餘種(其の資重二千餘種を獲る)」と。
○乗輿之副 「乗輿」は、天子の乗る車。「副」は、そえ車。
○中黄之府 宮中の財物を蓄える倉庫。『後漢書』巻七・桓帝紀の李賢注に引く『漢官儀』に「中黄蔵府、掌中幣帛金銀諸貨物(中黄蔵府は、中の幣帛金銀の諸貨物を掌る)」と。
○駆牛 群れて走り回る牛。「駆」は、「犇」の意(『広雅』釈宮)。
○富而不吝、寵至不驕、則周公其人也 恵まれた環境にあっても、吝嗇や驕慢に堕落しないのは周公旦である。『論語』泰伯篇にいう「如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足観也已矣(如し周公の才の美有るも、驕にして且つ吝ならしめば、其の餘は観るに足らざるなり)」を意識した表現。
○深更以栄為戚。「深」、底本は「身」に作る。今、『藝文類聚』『文館詞林』に拠って改める。「戚」は、憂い、心配ごと。
○簡易 大雑把で、細かいことを顧慮しないこと。『三国志(魏志)』巻十九・陳思王植伝に「性簡易、不治威儀(性は簡易にして、威儀を治めず)」と。
○脱爾 粗忽で、軽率なさま。『春秋左氏伝』僖公三十三年に「軽則寡謀、無礼則脱。入険而脱、又不能謀、能無敗乎(軽なれば則ち謀寡なく、無礼なれば則ち脱なり。険に入るに脱にして、又謀る能はずんば、能く敗るる無からんや)」と。
○一朝 一旦。ある日、突然。
○犬馬 君臣に対する臣下の立場を謙遜していう。「上責躬応詔詩表」(04-19-0)にも「不勝犬馬恋主之情(犬馬の主を恋ふるの情に勝へず)」と。
○詩曰、徳輶若毛、民鮮克挙之 『毛詩』大雅「烝民」に「徳輶如毛、民鮮克挙之(徳の輶(かろ)きこと毛の如きも、民の克く之を挙ぐるもの鮮(すく)なし)」と。