曹植の罪の意識(再び)

曹植は、「金瓠哀辞」(『曹集詮評』巻10)の中で、
半年ほどしか生きられなかった娘の夭折を、
自身の罪によるものだと慨嘆しています。(こちらをご覧ください。)

では、その罪とは何を指して言っているのでしょうか。

それを明らかにするためには、
この作品の成立時期を推定する必要があります。
過日、それは「行女哀辞」と同時期ではないかと述べました。

もしこの推定が妥当であるとするならば、
「行女哀辞」にいう「家王征蜀漢」が重要な示唆を与えてくれます。*1
「家王」すなわち魏王である曹操が、「蜀漢を征した」時期に、
本作品が作られたということをこの句は示しています。

曹操が魏王となったのは、建安21年(216)5月です。
他方、「行女哀辞」は、同題の作が徐幹や劉楨にもあって、
こちらに示した『文章流別論』と『文心雕龍』哀弔篇をご覧ください。)
彼らは、建安22年(217)の初めに流行病で相次いで没しています。
ということは、この作品は、建安22年初頭よりも後の成立ではあり得ません。*2

では、建安21年5月から翌年春までの間に、
曹操が蜀漢を征伐したという史実はあるでしょうか。
『三国志』や『資治通鑑』を見る限り、それはありません。
この時期の出征は、孫呉に向かってであり、「蜀漢」ではないのです。

しかし、その前年であれば、曹操は巴中の張魯を征伐しています。
曹操がこの西征から鄴へ帰還したのは建安21年2月、
魏王となったのはその3か月後です。(『三国志(魏志)』巻1・武帝紀)

かりに、「行女哀辞」の成ったのが、
もし建安21年5月から間もない時期であったとするならば、
曹操が「蜀漢を征した」出来事はまだ記憶に新しく、
その曹操を、魏王として「家王」と称しても不自然ではありません。
(それに先んじる魏公としての曹操を「家王」と称したとも考えられますが。)

なお、本作品の序によると、
「行女」が亡くなったのは初夏、生まれたのは前年の晩秋で、
この点、前述の推定と食い違うことはありません。

さて、過日の推論のように、
「金瓠哀辞」と「行女哀辞」とが同じ娘への哀辞だとすれば、
「金瓠哀辞」に詠じられた曹植自身の罪とは、
この建安20年頃から21年前半までの彼の言動を指すことになります。
この時期の彼はどのような様子だったのでしょうか。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の建安19年から22年に当たる部分に、
「任性而行、不自彫励、飲酒不節(性に任せて行ひ、自ら彫励せず、飲酒節せず)」
とあって、曹丕の自重的な態度と対比的に記されています。
このあたりが該当するかもしれません。

2023年4月30日

*1『文選』巻30、謝霊運「擬魏太子鄴中集詩」の李善注に引く佚文。
*2 徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.238は、もっぱら曹操の蜀漢への出征ということにのみ依拠して、「行女哀辞」の成立を建安24年(219)に繋年している。