張華と荀勗
「大曲」を編んだのは誰かという問題について、
仮説の上に仮説を立てるような推論を今しばらく続けます。
さて、「大曲」の編者が仮に張華だとして、
ではなぜ彼は、荀勗撰「清商三調」に重ねて「大曲」を編成したのでしょうか。
そのうちの一篇は、「荀氏録」に瑟調と記された歌辞を「大曲」に移したものであり、
その他の諸篇は、「荀氏録」とは重ならないものです(その多くは瑟調曲)。
そこで、張華と荀勗との関係性を調べてみました。
すると、昨日述べたように、二人は共に宮廷歌曲の歌辞を制作したばかりか、
律呂の検討においても、彼らは仕事を共にしていることが知られました。
『宋書』巻11・律暦志上に次のようが記事が見えています。
晋泰始十年、中書監荀勗・中書令張華、出御府銅竹律二十五具、部太楽郎劉秀等校試、
其三具与杜夔及左延年律法同、其二十二具、視其銘題尺寸、是笛律也。
西晋の泰始十年(274)、中書監の荀勗と中書令の張華は、
宮中の倉庫に蔵された銅製の律管二十五具を取り出し、
太楽郎の劉秀らを統括して比較検討したところ、
その三具は、魏の杜夔や左延年の律法に一致するものであり、
その二十二具は、銘記された尺寸を調べたところ、笛の律であった。
他方、『晋書』巻36・張華伝には、
張華を荀勗が憎み、外鎮に出したという記事が見えています。
張華は、当世の名望を一身に集めていた、寒門出身の高官であり、
一方の荀勗は、漢代以来の大族に属する、皇帝の恩顧も厚い人物です。
そして、荀勗が張華を追放する直接の契機となったのは、
昨日も触れた武帝司馬炎の弟司馬攸、この人に対する張華の高評価でした。
この他にも、『晋書』巻82・陳寿伝には、
張華が、陳寿(『三国志』の著者)を中書郎に推挙したところ、
荀勗は、張華を忌み嫌い、陳寿を嫉ましく思い、
吏部にほのめかして陳寿を長広太守に飛ばしたとあります。
こうしてみると、張華には、
荀勗撰「清商三調」とは異なる価値観により、
新たな宮廷歌曲群を選定するだけの動機は十分にあったと言えそうです。
2023年5月11日