母語で書くということ

昨年の夏に行った、中国での口頭発表
「探討晋楽所奏“清商三調”与“大曲”的関係」をもとに、
先日まで、日本語の論文に書き直していました。
昨日、「大曲」の編者なる語がふと出てきたのはそのためです。)

すでに発表原稿があるのだからそれほど時間はかからないだろう、
と思っていたら、とんでもないことでした。

母語で書くとは、手慣れた表現の手段などではなく、
むしろ、考えるための道具だと言った方がよいのではないかと思います。

それは、自身の考察内容を改めて問い返す、
鋭利な刃物で、論の筋目のその奥へと切り込んでいくような作業でした。

発表原稿を準備する段階では気づいていなかった論理の飛躍は目につきますし、
また、本当にそう言い切れるのか、詰めの甘かった部分もありました。

そのような再検討をする中で、新たに知ったこともあります。
(もしかしたら周知のことなのかもしれませんが)

そのひとつが、阮籍の兄の子、阮咸に関する次のような逸話でした。
『宋書』巻19・楽志一にこうあります。*

勗作新律笛十二枚、散騎常侍阮咸譏新律声高、高近哀思、不合中和。
勗以其異己、出咸為始平相。
 荀勗は新しい音律の笛十二枚を作ったところ、
 散騎常侍の阮咸は次のように批判した。
 新律は音調が高く、高きは悲哀に沈む亡国の音に近く、中和の世には合致しない、と。
 荀勗は、彼の主張が自身とは異るという理由で、始平(長安の西方)の相に左遷した。

同様の記事は、『晋書』巻49・阮籍伝付阮咸伝にも次のように見えています。

荀勗毎与咸論音律、自以為遠不及也、疾之、出補始平太守。以寿終。
 荀勗は阮咸と音律を論ずるたびに、自分は彼に遠く及ばないと自ら思い、彼を憎んで、
 都から出して始平太守に就任させた。阮咸は天寿をまっとうした。

荀勗は同様な仕打ちを、張華に対しても(『晋書』巻36・張華伝)、
張華が高く評価した陳寿に対しても行っていますが(『晋書』巻82・陳寿伝)、
阮咸も彼の標的になったとは驚きでしたし、
その理由が、自分とは見解が異なる、自分より優れているからだとは呆れました。
もっとも、彼には彼なりの理由があったのでしょうが。

2024年2月8日

*釜谷武志「六朝の楽府と楽府詩」(課題番号14310203、平成14年度~平成16年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(2))研究成果報告書)p.31注(18)を参照。