曹植「七哀詩」の制作年代をめぐって
昨日の続きとして。
「七哀詩」と題する作品は、建安七子のひとり阮瑀にもあります。
『藝文類聚』巻34・人部十八・哀傷に、「魏の阮瑀の七哀詩に曰く」として引く、
「丁年難再遇(丁年は再びは遇ひ難し)」に始まる一首、
それに、続いて「又詩に曰く」として引くものも、
もしかしたら「七哀詩」かもしれません。
というのは、その後に「魏の王粲の七哀詩に曰く」として引くもの、
それに続けて「又詩に曰く」として引くものの併せて二首が、
『文選』巻23に、王粲の「七哀詩二首」として採録されているからです。
『藝文類聚』における阮瑀詩の引用の仕方が、王粲のそれと同じ体裁なので、
このように推測することも可能かと考えました。
さて、そのように題目を共有する複数の作品がある場合、
多くは、場を同じくして競作された作品群であろうかと考えられます。
では、曹植「七哀詩」も、王粲や阮瑀らとの競作だと見ることができるでしょうか。
先行研究を通覧すると、
本詩を曹丕と曹植との関係性に結びつけて解釈するものが多く、
その代表的なものが、黄節によるこちら(2022.08.30)の指摘です。
趙幼文が本詩を黄初年間に繋年しているのは、これに基づくかと思われます。*1
また、徐公持は別の観点から、本詩の制作時期を明帝の太和5年と推定しています。*2
曹海東は、本詩を曹丕との関係性に結びつける先人の説に一定の妥当性は認めながらも、
制作年代にまでは踏み込もうとしていません。*3
これらの説は、少しずつ立脚点を異にしてはいますが、
いずれも、本詩が建安文人たちとの競作であった可能性には言及がありません。
一方、伊藤正文は、「七哀」という詩の題目について諸説を紹介し、
これに続けて、次のようなコメントを付しています。*4
なお、この詩の制作年代は不明。
曹植が雍丘にいたときとか、文帝時代の作とかの説もあるが、
いずれも憶測の域を出ない。
そして、この後に、王粲・阮瑀にも「七哀詩」があることを記しています。
このような記し方からして、もしかしたら伊藤氏は、
本詩が競作されたものである可能性に目を向けていたかもしれません。
(前述の曹海東氏にも、その可能性がないではありません。)
明日につなぎます。
2024年4月25日
*1 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻2、pp.313―314。
*2 徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.387。
*3 曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)pp.122―124。
*4 伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)pp.117―120。