曹植の放埓
曹植は、建安22年(217)以降、
父曹操の寵愛を失うような行動が目立ってきます。
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝に、その頃のこととして、
天子専用道路を車で通り、勝手に司馬門を開かせて外へ出たことが記され、
その裴松之注に引く『魏武故事』には
曹操の失望を物語ってあまりある、次のような令が載せられています。
始者謂子建、児中最可定大事。
始めは、子建が子どもたちの中で最も大事を決断できる者だと思っていた。
自臨菑侯植私出、開司馬門至金門、令吾異目視此児矣。
臨菑侯曹植が勝手に外へ出て、司馬門を開き金門に至るということをしてから、
わたしはこれまでとは異なる目でこの子を視るようになった。
こうした記述から窺える曹植の人物像は、
建安年間に書かれた曹植自身の作品との間にかなりの落差があります。
そのことが長らく不思議で、腑に落ちないままでした。
ですが、この時期の曹植を取り巻く人々の動向を見るうちに、
もしかしたらこういうことではないか、と思い至ったことがあります。
それはこういうことです。
建安21年(216)、当代の名士で、曹植と姻戚関係もある蔡琰が、
曹操から死を賜るという事件が起こりましたが(『三国志(魏志)』巻12・崔琰伝)、
それは、曹植の腹心である丁儀の讒言によるものです(同巻12・徐奕伝裴注引『傅子』)。
丁氏兄弟の暗躍は、曹操が魏王となったこの頃、とみに酷くなっています。
(彼らの所業については、こちらやこちらに記しています。)
すると、先に記した曹植の放埓は、ここに起因する可能性がないでしょうか。
たとえば、「贈丁翼」詩などから読み取れるように、
曹植は丁氏兄弟に対して、真っ当な君子たれと励ましてきましたが、
その誠意を裏切るような彼らの悪事を知って深い落胆を覚え、
自暴自棄になったのではないか、と思ったのです。
けれども、このような捉え方はきれいごとに過ぎるかもしれません。
『魏志』本伝には、それ以前の時期についても、
「任性而行、不自彫励、飲酒不節(性に任せて行ひ、自ら彫励せず、飲酒節あらず)」
と、曹植の放縦な素行が記されています。
もともとあった奔放不羈の性情に、悪いめぐり合わせが絡みついて、
前述のような不埒なふるまいに及んだのかもしれません。
2024年8月6日