宴席詩歌における「主人」

曹植「当車以駕行」の不可解さについて述べた昨日の続きです。

「主人離席」の「主人」を、
黄節は、『儀礼』燕礼にいう「主人」すなわち「宰夫」か、
もしくは曹植自身のことか、と解釈していました。

そこで、曹植作品における「主人」を当たってみたところ、
「闘鶏」(05-04)に、

主人寂無為  主人は、ひっそりとした心持ちで何もすることが無く、
衆賓進楽方  そこで賓客たちは楽しみの方法を進言した。

「妾薄命 二首(2)」(05-07-2)に二箇所、

主人起舞娑盤  主人は起き上がってひらりひらりと舞を舞う。
能者宂触別端  舞い上手の者たちは手持無沙汰で、楽器に手を触れたりなどしている。

客賦既酔言帰  客が「もうすっかり酔いました。さて帰りましょう」と詠ずれば、
主人称露未晞」 主人は「いや、まだ露はかわいていませんよ」と唱える。*

とありました。

以上を見る限り、「主人」とは、客人への供応を掌る「宰夫」ではなく、
宴の主催者である人物だと捉えるのが妥当です。

そして、前掲「妾薄命」には「主人起舞娑盤」とあって、
宴の主催者自らが起き上がってひらりひらりと舞を舞っていました。
これが「離席」ということなのかもしれません。

なお、これに関連しては、曹植の別の作品「侍太子坐」(04-02)にいう、

翩翩我公子  ひらりひらりと軽快な我が公子、
機巧忽若神  その技芸の巧みさはまるで神業だ。

といった辞句も思い起こされます。
(ただし、宴の「主人」が「我が公子」であることが前提になりますが。)

こうしてみると、曹植「当車以駕行」にいう「主人離席」は、
供応の司「宰府」が、客人をもてなすために席を離れると見るよりも、
宴の主催者が、宴席を離れるのだと解釈する方がはるかに自然だと思われます。
(なお、宴の主催者が、作者である曹植かどうかはまた別の問題です。)

では、続く句で「顧視東西廂」とあるのは、
席を離れた「主人」が東西の廂をふり返ってみるということでしょうか。
その場合、ふり返ってみるとはどういうわけでしょうか。

2025年10月14日

*『毛詩』小雅「湛露」を踏まえる宴席での常套句。詳細は当該詩の訳注稿を参照されたい。