曹植「盤石篇」が難解であるわけ
曹植「盤石篇」の訳注に取り掛かって、
もうかれこれ2週間が過ぎ去ろうとしています。
本日、ひととおりの語釈を終え、あと残っているのは通釈と解題です。
本詩の読解がこれほど難儀なことになろうとは予想外でした。
自分はなぜこの詩を分かり難いと感じるのか。
論者によって、その趣旨の捉え方がかくも異なるのはなぜなのか。
少し立ち止まって考えてみました。
本詩は、後半生の作とほぼ確定される作品との間に、
曹植作品を特徴づけるような言葉を、複数共有しています。
その最たるものとして「蓬」「参辰」「吁嗟」を挙げることができます。
「蓬」は、転々と国替えされた曹植の後半生を象徴する語で、
「雑詩六首」其二や楽府詩「吁嗟篇」において印象的に描かれています。
「参」と「辰(商)」とは、同じ天に同時には現れない星座で、
兄弟や夫婦の離別の喩えとして「種葛篇」や「浮萍篇」に用いられています。
「吁嗟」は、これをそのまま題名とした前掲の楽府詩があります。
そのような言葉を織り込んで詠じながらも、
そこには、後半生の作品に目立つ影はほとんど認められません。
そして一方、巨大な鯨を登場させたり、吹き上げる風に乗って一挙千里と船出したり、
表現が大仰で、しかもどこか陽気な雰囲気を纏っているように感じられます。
本詩を後半生の作と見ることに躊躇を覚えるのは、実にこのためです。
ただ、書かれている物事を現実と結びつける論法に比べて、
これはいかにも根拠薄弱な感覚的判断とされるのかもしれません。
けれども、作品は作者の体験を記した情報ではありません。
“何が”書かれているかということ以上に、
“どう”表現されているかの方にこそ注意を向けたい。
明かな成立年を書き残していないこの時代の作品は、
その内容を原文に即して読み解くことが必須であると同時に、
文学作品を読むとはどういうことなのか、私たちに問いかけてきます。
2025年11月7日