再び「贈徐幹」詩について

曹植「贈徐幹」詩の解釈をめぐっては、
これまでにも何度か雑記で考察を試みたことがあります。
そうした中で、袋小路に入ってしまったような、
ずいぶんと不自然な解釈にたどりついたようなところもありました。
それが、彼の他の作品を読み、少し時間をおいた今、
こういうことだったのではないか、と見えてくるものがあるのを感じています。
また修正を要するかもしれませんが、現時点での考えを記しておきます。

問題となる箇所は、龜山朗氏も取り上げておられる次の部分です。*

19 宝棄怨何人  宝の棄てらるるに何人をか怨まん
20 和氏有其愆  和氏に其の愆(あやまち)有り
21 弾冠俟知己  冠を弾きて知己を俟(ま)つも
22 知己誰不然  知己も誰か然らざらん
23 良田無晩歳  良田 晩歳無く
24 膏沢多豊年  膏沢 豊年多し
25 亮懐璵璠美  亮(まこと)に璵璠の美を懐けば
26 積久徳愈宣  積むこと久しくして徳は愈(いよいよ)宣(の)べられん

まず、20句目は何を言おうとしているのでしょうか。

一般に「和氏の璧」として知られるこの故事は、
粗玉の真価を見抜けなかった楚王に非があると見るのが妥当であり、
それを幾たびも献上した卞和には、慨嘆こそすれ、何ら落ち度はありません。
そうした故事を踏まえつつ、敢えて和氏にこそ「宝棄」の「愆」があると詠ずる、
ということは、楚王の立場に比定される曹操に非はないと言っていることになります。

そう考えるならば、
23・24句目、曹操の恩沢を「良田」「膏沢」と表現する句にぴたりと連結します。

21句目にいう「弾冠俟知己」とは、
知識人が官界に相互推薦する、当時にあってはよくあることで、
語釈に引いた『漢書』巻78・蕭望之伝附蕭育伝の他、同巻72・王吉伝にも見えます。

ところが22句目、自分を推薦してくれるはずの「知己」も「誰不然」だという。
「然」とは、直前に見える「弾冠俟知己」の状態を指すでしょう。
誰もが、官職を得たいと願いつつ、それが得られない境遇にあるということです。

曹操の幕下では、このような情況が多く見られ、
若き曹植は、そうした人々に対する処遇を気にかけていました。
このことについては、たとえばこちらをご覧ください。

さて、21・22句目をこのように捉えるならば、
これもまた、23・24句目に自然につながっていきますし、
本物の才能はいずれ見出される、と詠ずる25・26句目とも響き合います。

ただ、徐幹自身の気持ちはどうだったか。
彼は現実社会からは距離を取り、著述に専念していた人物です。
曹植が詠ずるように、世に知られることを本当に望んでいたのでしょうか。
これについては、保留としておきたく思います。

ただ、ふと思ったのは二人の年齢差です。
徐幹(170?―217?)と曹植(192―232)とは20歳余り離れています。
二十代の若者に、初老の苦労人の気持ちが分からなかった可能性は十分あります。

2026年1月25日

*龜山朗「建安年間後期の曹植の〈贈答詩〉について」(『中国文学報』第42冊、1990年10月)を参照。