親愛の情と無遠慮
昨日も述べたように、曹植は自身の作品に曹丕の詩を取り込んでいます。
してみると、曹植は兄曹丕に対して親愛の情を抱いていたと言ってよいでしょう。
嫌悪し軽蔑する人間の言葉を用いたりはしないでしょうから。
とはいえ、一方で曹植は「贈丁廙」詩の中でこう詠じています。
我豈狎異人 私はどうして関係のない人々に馴れ親しんだりするものか
朋友与我倶 古なじみの友人たちが私とともにいるのだ
この詩は宴席の情景を詠じたものですが、
その中に見えている前掲の句は、『毛詩』小雅「頍弁」にいう
爾酒既旨、爾殽既嘉。豈伊異人、兄弟匪他。
爾(そ)の酒は既に旨(うま)く、爾の殽(さかな)は既に嘉(よ)し。
豈に伊(こ)れ異人ならんや、兄弟にして他に匪(あら)ず。
を踏まえつつ、『毛詩』の「兄弟」を、「朋友」に差し替えたものです。
ここで宴席を共にしているのは「朋友」であって「兄弟」ではないと言っているのです。
また、「贈丁儀」詩において、曹植は舌鋒鋭く為政者を批判していますが、
その為政者とは、曹丕と比定するのが最も妥当だと考えます。
これらの作品からは、曹植の、兄曹丕に対する無遠慮な反発心が見て取れます。
一方で、兄への親愛の情が推し測られるような作品があるというのに。
これはどういうことでしょうか。
思うに、親愛の情が双方にとって揺るぎないものと感じられるとき、
人は安心して相手に甘え、無遠慮になれるのかもしれません。
ですが、それが片思いであるとき、あるいは相手の気持ちが見えないとき、
人は却って居住まいを正すもののように思われます。
2026年2月4日