04-10 贈丁儀

04-10 贈丁儀  丁儀に贈る

【解題】
「丁儀」(?―二二〇)は、沛郡の人。父の丁沖は曹操の古馴染みで、曹操が献帝を許都に迎えることができたのは沖の助力による。丁儀は弟の丁廙や楊修とともに、曹操の後継者として曹植を強く推し、曹丕が魏王となった延康元年(二二〇)に殺害された(『三国志』巻十九・陳思王植伝、及びその裴松之注に引く『魏略』)。本詩の成立は、丁儀の死が目前に迫った時期だと見られる。詩中における為政者批判が、曹丕に向けられたものだと判断せざるを得ないからである。別に、曹丕が太子に立てられた建安二十二年(二一七)以前と見る説もある。これは、詩中に詠じられた延陵季子が王位継承を固辞した人物で、この逸話と曹氏兄弟の後継者問題との類似性に着目しての推論である。詳細は、柳川順子「曹植「贈丁儀」詩小考」(『林田愼之助博士傘寿記念三国志論集』汲古書院、二〇一二年)を参照されたい。『文選』巻二十四所収。李善注に、当時存在した曹植の別集には「都亭侯丁翼に与ふ」と題されていたことを記す。

初秋涼気発  初秋 涼気発し、
庭樹微銷落  庭樹 微(かす)かに銷落す。
凝霜依玉除  凝霜 玉除に依り、
清風飄飛閣  清風 飛閣に飄(ひるがへ)る。
朝雲不帰山  朝雲 山に帰らず、
霖雨成川沢  霖雨 川沢を成す。
黍稷委疇隴  黍稷 疇隴に委(す)てらる、
農夫安所獲  農夫 安(いづく)んぞ獲る所ぞ。
在貴多忘賤  貴きに在りては多く賤(ひく)きを忘れ、
為恩誰能博  恩を為すこと誰か能く博からん。
狐白足禦冬  狐白 冬を禦ぐに足るも、
焉念無衣客  焉んぞ無衣の客を念はん。
思慕延陵子  思慕す 延陵子、
宝剣非所惜  宝剣 惜しむ所に非ず。
子其寧爾心  子は其れ爾(なんぢ)が心を寧(やす)んぜよ、
親交義不薄  親交 義 薄からず。

【通釈】
初秋の季節、涼やかな気が生じて、庭の樹木はその枝葉をわずかに落とし始めた。やがて、固く凝結した霜が宮殿のきざはしを覆い、清冽な風が翻って、聳え立つ高楼に吹き付ける。例年になく朝に湧き出た雲が山に帰らず、そのため長く降り続いた雨が、川や水たまりをつくっている。実らなかった黍や稷は畑の中に打ち捨てられて、農夫たちはいったい何を収穫すればよいというのだ。高位にある者は卑賤なる者の存在を打ち忘れ、分け隔てない恩沢は、誰にもそれを施すことなどできはしないのだ。狐白裘は十分に冬の寒気を防げるだろうが、そんな御仁に、満足な上着もない旅人のことをどうして思いやれようか。かの延陵の季子を思い慕う私は、身に帯びていた宝剣を出し惜しみしたりはしない。だから君よ、どうかその心持を安らかに保ってくれ。私たちの親しい交わりは、薄からぬ情義で結ばれているのだから。

【語釈】
○庭樹微銷落 樹木の「銷落」が死のイメージを帯びる例として、『漢書』巻九十七上・外戚伝(李夫人)に、漢の武帝が亡き李夫人を悼んだ辞賦を引いて、「秋気憯以淒涙兮、桂枝落而銷亡(秋気憯(さん)として以て淒涙たり、桂枝は落ちて銷亡す)」と。
○玉除 玉づくりの階段。ここでは、宮殿のきざはしをいう。「玉」は、尊崇するものに冠する美辞として多く用いられる。
○朝雲不帰山 当時、朝に生じた雲は、夕方にはもとの山に帰っていくものだと考えられていた。たとえば、応瑒「別詩」(『藝文類聚』巻二十九)に、「朝雲浮四海、日暮帰故山(朝雲は四海に浮かぶも、日暮るれば故山に帰る)」と。そうでないのは異常気象である。『広雅』釈天「月行九道」に「八月浮雲不帰、二月雷不行(八月に浮雲帰らずんば、二月に雷行かず)」とあるように、それは半年を隔てた時期の異常気象と相関関係を持つとされた。
○霖雨成川沢 「霖雨」は、三日以上降り続く雨(『春秋左氏伝』隠公九年)。当時、太平の世にあっては、十日にひとたび雨が降ると考えられていた(『初学記』巻二に引く京房『易候』)。このリズムから乖離する長雨は、治世の乱れを反映するものとされた。
○黍稷 もちきびとうるちきび。広く穀物を指す。
○疇隴 田畑。
○狐白足禦冬・焉念無衣客 「狐白」は、狐の脇の白い毛皮で作った高級な上着、狐白裘。両句は、降り続く雪の中、狐白裘を着て「天下の寒からざるは何ぞや」と言った斉の景公に対して、晏子が「古の賢君は飽にして人の飢ゑを知り、温にして人の寒きを知る」云々と厳しく諫めた逸話(『晏子春秋』諫下)を踏まえる。上の句は、『楚辞』九辯にいう「無衣裘以御冬兮(衣裘無くして以て冬を御す)」を、下の句は、『毛詩』豳風「七月」にいう「無衣無褐、何以卒歳(衣無く褐無くんば、何を以て歳を卒へん)」を響かせる。
○延陵子 春秋呉の王子季札。延陵(今の江蘇省常州市)に封ぜられたのでこう呼ばれる。季札は同母兄弟四人の最年少で、父の跡継ぎに立てられそうになったのを固辞した逸話で知られる(『史記』巻三十一・呉太伯世家、劉向『新序』節士篇)。
○宝剣非所惜 前掲「延陵子」にまつわる次の逸話を踏まえ、真心を完遂することをいう。季札は使者として晋へ赴く途上、徐の君主を訪ね、帯びていた宝剣が徐君の心を捉えたのを察して、公務を果たした後にこれを献上しようと心に決めた。ところが、晋からの帰途、季札が徐君を再訪すると、彼はすでに亡くなっていた。季札は「剣を愛して心を偽る、廉者は為さざるなり」と言って、宝剣を嗣君に渡そうとしたが受け入れられず、その墓に植わっていた樹に剣を掛けて立ち去った(『新序』節士篇)。「愛」は「惜」と同義である(『広雅』釈詁)。
○親交義不薄 「親交」は、親しい間柄。また、肉親の間柄をも指す。『荘子』山木に「吾犯此数患、親交益疏、徒友益散(吾は此の数患に犯ひて、親交は益疏く、徒友は益散ず)」とあり、唐の成玄英の疏が、「親交」と「徒友」とを対で捉えて「親戚交情」「門徒朋友」と解釈しているのがそれである。一句に類似する表現として、『文選』巻二十四所収「贈徐幹」(04-09)に「親交義在敦(親交 義は敦きに在り)」とある。その李善注には、前掲の『荘子』を引く。