曹植を臨淄侯に任命した者
「責躬詩」の中に「帝曰爾侯、君茲青土」という句が見えます。
魏の文帝曹丕が、曹植に青州・臨淄への赴任を命じたことをいう辞句です。
これより前に「受禅于漢」という句が見えていることから、
それは、魏が後漢の禅譲を受けた延康元年(220)十月以降のことと判断されます。
ですが、曹植が臨淄侯に任命されたのは、それより前の建安19年(214)です。
当時、後漢王朝はまだ存続していましたが、実権は曹魏が掌握するという情況でした。
そこで、曹植を臨淄侯に任命したのは後漢王朝と見て間違いないか、
急に不安になりました。
曹植は臨淄侯となる以前の建安16年(211)、平原侯に封ぜられています。
これは、曹丕が五官中郎将・丞相副(丞相曹操の輔佐)となったのと同時期でした。
まず、『三国志(魏志)』巻1・武帝紀にこうあります。
(建安)十六年春正月、天子命公世子丕為五官中郎将、置官属、為丞相副。
ここにいう「天子」は後漢王朝の献帝、
「公」は曹操、その「世子」とは曹丕をいいます。
そして、この記事に対する裴松之注に引く『魏書』にこうあります。
庚辰(11日)、天子報、減戸五千、分所譲三県万五千封三子、
植為平原侯、据為范陽侯、彪為饒陽侯、食邑各五千戸。
これによると、曹丕が五官中郎将・丞相副に任ぜられたとき、
同じ後漢の献帝から、曹植、曹拠、曹彪に上記の爵位が下されたことが知られます。
つまり、曹植を初めて侯に封じたのは後漢王朝であったということです。
では、下って建安19年、曹植が臨淄侯に移ったときはどうだったのでしょうか。
それに先立つ建安18年(213)、曹操は献帝から魏公に任命されましたが、
そのことを記す策命(辞令書)に次のような記述が見えています。
(『三国志(魏志)』武帝紀)
魏国置丞相已下群卿百寮、皆如漢初諸侯王之制。
これによると、魏公曹操は、漢初の諸侯王に関する制度に沿って、
魏国の配下に丞相以下の諸官僚を置けるようになったということが知られます。
(この他にも、天子に匹敵するような事物の下賜が列記されています。)
これより以降、魏公曹操は、曹植らを侯に任命することができたのでしょうか。
『三国志(魏志)』武帝紀の建安十九年(214)三月の条には、
天子使魏公位在諸侯王上、改授金璽・赤紱・遠遊冠。
と、魏公曹操が、他の諸侯や王たちの上位に位置づけらたことが記されています。
ということは、魏公曹操はあくまでも後漢王朝の諸侯王のひとりであり、
そうである以上、自らが諸侯を配置することは不可能だったと見てよいでしょうか。
そこのところがはっきりと理解できていません。
2026年3月14日