潜魚と飛鳥(承前)

曹植「情詩」(『文選』巻29)に見える、
水底に潜む魚と、飛翔する鳥との対句について、
それを、自適の境遇にあるものを詠じた表現だと言えるかどうか。

このような躊躇を覚えたのはまず、
前回述べた、阮籍「詠懐詩」から遡っての捉えなおしによるものです。

そしてもうひとつ、曹植自身の「公讌詩」(『文選』巻20)に、
次のような対句が見えているからです。

潜魚躍清波  水底に潜んでいた魚は清らかな波間に躍り上がり、
好鳥鳴高枝  可愛い鳥が高い枝の上でさえずっている。

この句が詠ずるもの自体は、庭園の中のありふれた風物だと思われます。
たとえば、曹丕「善哉行・朝游」(『宋書』巻21・楽志三)にも、
宴の情景の中に「淫魚」と「飛鳥」とが詠じられています。

ただ、魚と鳥とが共に、曹植「情詩」にも登場していて、
そこでは、魚も鳥も、人間から距離を取った場所に身を置いている、
そこに、「公讌詩」と「情詩」との間を隔てる質的な相違を感じたのです。

「情詩」にそこはかとない影を感じたのは、
その冒頭句「微陰翳陽景(微陰 陽景を翳ふ)」にも由来します。
この句が描く情景は、文選巻29「古詩十九首」其一にいう、
「浮雲蔽白日(浮雲は白日を蔽ふ)」を思わせますが、
この古詩にいう「浮雲」と「白日」とは、
漢代、「邪佞の忠良を毀つを喩」えたものと捉えられていました(李善注)。

「情詩」と「古詩十九首」其一との共通項として、
帰ってこない「遊子」が詠じられていることも挙げられます。

以上のことが少し引っ掛かったので、訳注稿には追記しておきました。
けれど、詮索しすぎなのかもしれず、また後日、削除することになるかもしれません。

2024年5月7日