建安02年(197)43歳:巻12「何夔伝」:袁術は橋蕤とともに蘄陽を攻め、蘄陽は曹操に味方して固く守り通した。袁術は何夔がその郡の人であることから、蘄陽を説得させようと迫ったが、何夔はこれに従わずに身を隠し、その後、脱出して郷里に帰った。まもなく曹操が司空掾属として何夔を召し寄せた。時に、袁術の軍が混乱していると伝える者があり、曹操は何夔に意見を聞いた。何夔は「袁術は信・順の実績がないのに、天・人の助けを望んでおり、天下に志を得ることはできない。その軍が乱れているというのは必ずやそのとおりだろう」と述べた。曹操は「国を治めるのに賢者を逃せば滅びる。袁術の陣営が乱れるのは、当然だ」と言った。曹操は厳格な性格で、掾属の公務では杖で叩くこともあったが、何夔は常に毒薬をしのばせて、死んでも辱めは受けるまいと誓っていたので、ついにそのようなことはなかった。(同伝裴注引『魏書』:何夔の従父の衡は、その直言のため党錮の禁に遭っている。)2-p.378*, 2-p.415**

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