建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」裴注引『献帝起居注』:曹操が上言した。「大将軍鄴侯袁紹は、前に冀州牧韓馥と故大司馬劉虞を擁立し、金璽を刻し、故任長畢瑜を劉虞のもとへ遣り、天命のさだめを語って聞かせた。また袁紹は臣下に手紙を遣り、鄄城に都を置くべきだ、立てるべき人がいるから、と述べた。勝手に金銀の印を鋳造し、孝廉・計吏はみな袁紹のもとに来させられた。従弟の済陰太守袁叙は袁紹に手紙を送り、「今、海内は乱れ、天の意は実に我が袁氏にある。神からの徴候もあり、それは貴兄にある。南兄の臣下は即位させようとしたが、南兄は、年齢から言っても、地位から言っても北兄の方がふさわしい、と言っている。そこで、すぐに璽を送ろうとしたが、曹操に道を断たれた」と述べた。袁紹一族は代々国家の厚い恩を受けていながら、その凶逆無道はここまでひどい。そこで、兵馬を指揮して官渡で合戦し、聖朝の威厳を背にして、袁紹の大将淳于瓊ら八人の首を斬り、大いに打ち破ることができた。袁紹と子の袁譚は軽身で逃げ去った。全部で斬った首は七万余級、輜重財物は巨億に上る」と。1-p.22*, 1-p.050**

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