建安11年(206)52歳:巻1「武帝紀」:初め、袁紹は甥の高幹を并州牧にしていたが、曹操が鄴を破ると、幹は投降し、刺史に任命された。幹は曹操の烏丸討伐を聞くと、州を挙げて反旗を翻し、上党の太守を捕らえ、兵を挙げて壺関口を守った。(曹操は)楽進・李典を遣ってこれを撃ち、幹は退却して壺関城を守った。この年の正月、曹操は幹を討ちに出た。幹はこれを聞くと、その別将を留めて城を守らせ、自分は匈奴に走って、単于に救援を求めたが、単于はこれを受け付けなかった。曹操は壺関を三ヶ月包囲し、これを打ち破った。幹はかくして荊州に遁走し、上洛都尉王琰がこれを捕らえて斬った。1-p.28*, 1-p.062** 只今、制作中です。