建安13年(208)54歳:巻1「武帝紀」裴注引衛恒『四体書勢』序:…(楷書について)…霊帝が書道を好むに至って、世の中には多くこれを能くする者が出たが、中でも師宜官は最も巧みで、非常にその能力を誇り、書をしたためるたびに、その札を削り取ったり焼いたりして(書法を盗まれないようにした)。梁鵠は版をたくさん作って彼に酒を飲ませ、酔っ払ったところを見計らってその札を盗み、ついに書道を究めて選部尚書となった。時に、曹操は洛陽の令となりたかったが、鵠は彼を北部都尉とした。鵠は後に劉表の下に身を寄せたが、荊州が平定されるに及んで、曹操は鵠を探した。鵠は恐れ、自ら縛して出頭した。(曹操は)彼を軍の仮司馬に任命し、秘書に所属させ、書をもって力を発揮させた。曹操は常にそれを帳の中に掛けたり、釘で壁に掛けたりして愛玩し、師宜官に勝ると評価した。……魏の宮殿の題署は、みな鵠の書である。1-p.31*, 1-p.068** 只今、制作中です。