建安13年(208)54歳:巻1「武帝紀」裴注引皇甫謐『逸士伝』:汝南に王儁あり。曹操が無官であった時、特に儁を愛し、儁もまた曹操のことを治世の手腕があると称揚していた。袁紹と袁術が母を喪って汝南に帰ってきた時、儁は曹操とともに参列した。参列者は三万人。曹操は外で儁に密かに、「天下は乱れようとしている。乱を為す中心人物はきっとこの二人だ。天下を救い、百姓のために命を請いたいとするなら、まずこの二人を誅するのでなければ、今にきっと乱が起こるだろう」と語った。儁は「もし君の言うとおりなら、天下を救う者は、君をおいていったい誰か」と言い、顔を見合わせて笑った。(儁は物静かで賢明な人柄。州郡三府の命にも応ぜず、武陵に退居したが、彼に付き従う者が一百余家もあった。皇帝が許に都を置いたとき、再び召し出されたが、また就かなかった。劉表が袁紹の強いのを見て、密かに袁紹と結ぼうとした時、儁は劉表に、「曹操は天下の英雄で、きっと覇道を興し、(斉の)桓公・(晋の)文公の功績を継承することができるでしょう。今、近きを捨てて遠きに就くなら、もしある日突然に事変が起こった時、はるか北方に救援を求めても、それは難しいでしょう」と。劉表は従わなかった。儁は武陵で六十四歳の天寿を全うした。曹操はこれを聞くと悲しみ、荊州を平らげた時には、自ら江に臨んで喪を迎え、改めて江陵に葬って、先賢として表した。1-p.31*, 1-p.068** 只今、制作中です。