建安15年(210)56歳:巻1「武帝紀」裴松之注引『魏武故事』:曹操の「十二月己亥令」を載せていう。「私が始めて孝廉に挙げられた時、年は若く、自分で思うに、もともと自分は隠者的な清廉さで名を知られた人物でもないから、おそらく海内の人に凡愚な人間と見られるだろうと思い、一郡の太守となって、立派に政治教化を行い、それによって名誉を打ち立て、世の名士に評価してもらおうと考えた。だから済南にいた時、(私が)始めて凶悪な者や汚濁の者たちを取り除き、公平な気持ちで人材を推薦したのだったが、これが諸常侍の意向に逆らう結果となったので、強豪の怒りを買って、家に禍を招くのではないかと恐れ、そこで病気を理由に郷里に戻った。官職を去ってから後、年齢はまだ若く、同じ年に推挙された者を見渡してみても、五十歳の人でもまだ老人とは呼ばれていない。自ら計算してみるに、これから二十年が過ぎ去って、天下が清らかになるまで待ったとしても、同じ年に始めて挙げられた者と等しいのだ。だから四季を通じて郷里に帰り、譙の東五十里の所に精舎を築き、秋夏は読書、冬春は狩猟という生活をしようと、低い土地を求め、泥水で自らを覆い隠し、賓客の往来も絶ち切ろうとしたが、しかし意のままにはならなかった。後に都尉として任用され、典軍校尉に遷(うつ)り、かくして更に国家のために賊を討伐し功績を立てようと思うようになり、侯に封ぜられ征西将軍となりたいと望んだが、しかる後に墓に「漢の故征西将軍曹侯の墓」と題される、これこそがその志であった。ところが董卓の難に遭遇し、義兵を興すこととなった。この時、兵を合わせると多く得ることはできたのである。しかし常に自ら少なくして、これを多くしようとはしなかった。というのは、大勢の兵は意気が盛んで、強敵と戦い、もしかしたらそれがまた禍のもととなるかもしれないからである。だから、汴水の戦いでは数千、後にまた揚州に戻って更に募兵しても、それでも三千を超えなかった。これはその本来の志に限りを設けていたからだ。後に兗州を領有して黄巾三十万の衆を破った。また袁術が九江で皇帝を僭称し、下々の者たちは皆臣と称し、門に建号門と名づけ、服装は皆天子の制度に則ることとし、両婦は早くも皇后の位を争うという事態となったとき、彼の意志も計略もすでに定まっていて、中には彼に帝位に就き、そのことを広く天下に発布するよう勧める者もいたが、彼は「曹操がまだいるのだから、(帝位に就くことは)まだよろしくない」と答えたのだった。後に私は彼の四人の将軍を捕らえ、その配下の衆を獲得し、かくして袁術は窮地に追い込まれ、野望を打ち砕かれ、病を発して死んだ。袁紹が河北に割拠するようになると、彼の軍勢は強大で、私は自ら我が軍勢を計算してみるに、全く彼に対峙できるようなものではなかったが、ただ、死を賭けて国を守り、義をもって身を滅ぼそう、そうすれば後世に名を残すに足るだろうと考えた。幸いにも袁紹を破り、その二人の子の首をさらすことができた。また、劉表は自分のことを皇室の一員と考え、内に邪悪な野心を隠して、前に進んだり退却したりしながら世の中を観察して当州(荊州)に割拠していたが、私はまたこれも平定して、かくして天下は平らかに定まった。我が身は宰相となり、人臣としての貴顕はすでに極限に達し、すでに当初の望みを越えるものとなった。今、私がこのことを言うと、自己宣伝しているようだが、人としての言葉を尽くそうと思って遠慮しないだけなのである。もしも国家に私という人間がいなかったならば、いったい何人が皇帝と称し、何人が王と称したかわからない。もしかしたら人は私の強い勢力を見て、また根っから天命というものを信じないで、恐らくは私心からの批評であろう、(私に)不遜な志があると言い、みだりにあれこれ推し量って、いつも落ち着かない気持ちでいるかもしれない。だが、斉の桓公や晋の文公が今日に至るまで賞賛されている所以は、その強大な武力をもってしても、なおよく周王朝に仕えたからである。『論語』に「(周は)天下の三分の二を有しながら、もって殷に服従し仕えた。周の徳は最高の徳と言うべきだ」(泰伯篇)とあるが、それは大をもって小に仕えることができたからこそ(今に至るまで評価が高いの)である。昔、楽毅(もと燕の昭王に仕えた名将)は趙に遁走し、趙王は彼とともに燕の国を攻めようと図ったが、楽毅は伏して涙を流し、「臣が昭王に仕えたのは、ちょうど大王に仕えているようなものだ。私がもし罪を得て他国へ放逐されたとしても、死んでしまえばそれまでのこと。趙の奴隷を計略にかけるのにも忍びないのに、まして燕の跡継ぎに対してはなおさらだ」と答えたという。胡亥が蒙恬を殺したとき、蒙恬は「我が先人から子孫に至るまで、秦に信義を重ねて三世になる。今、臣は兵三十余万を率いて、その勢力は秦に対して反乱を起こすのに十分だ。だが必ず死ぬとわかっていながら節義を守り通すのは、先人の教えを辱めて先王のことを忘れることはできないからだ」と言ったという。私はこの二人の記録を読むたびに、いつも切なくなって涙が流れる。私の祖父から私に至るまで、みな皇帝のおそば近くに仕える重要な任務に当たったのは、信頼されていたからだと言ってよいだろうが、子桓(曹丕)兄弟にまで及ぶと、三世代を越えることになる。私はただ諸君に対してのみこのことを説いているのでなく、常に妻妾たちにも語って聞かせていて、いずれにもこの言葉の意味を深く理解させている。私は彼女たちに「私が死んで後のことを考えるに、お前たちはみな当然嫁に出るだろうが、私の気持ちを周囲に伝えて、他の人々皆にこのことを知ってもらうようにしておくれ」と言い聞かせている。私のこの言葉は、心の中にあることの中でも最も重要なところだ。事細かに心中を述べたのは、周公に金縢の書があって、それで自らの真意を明らかにできたことを見るにつけ、人は私の言うことを信用しないのではないかと危惧するからである。とはいえ、私に、統率している軍隊を今すぐ手放して執事に戻り、武平侯国に帰任するよう求められても、それは全く不可能である。なぜならば、自分が軍隊を離れれば、人から災禍を被るだろうことが本当に心配だからだ。それは子孫のための計であるばかりか、自分が敗れたら国家も危うくなるからである。だから、虚しい名誉を慕って危険な現実に身を置くことはできず、これはやむを得ないことなのである。先に朝廷より三人の子を侯に封ずるという恩沢を賜った時には、固く辞退して受けなかったのに、今更ながらこれを受けようというのは、再び栄誉としたいと思ったからではなく、外からの援助態勢をつくり、万安の計としたいと考えたからである。私は、介之推が晋から俸禄を受けることを避け、申包胥が楚の褒賞を受けることから逃亡したことを耳にすると、いつもそのことを記している書物をおいて慨嘆せずにはいられないが、それはそれによって自ら省みるべき点があるからである。国の威光と神霊とを奉って鉞を杖つきながら賊を征伐し、弱きを以て強きに打ち勝ち、卑小な立場に身を置きながら大なるものを虜とし、意図したことはほとんどその通りとなり、考慮したことは必ず成し遂げられ、かくして天下を平定し、君主の命を辱めずにすんだのは、天が漢王室を助けたと言うべきで、人の力によるものではない。だが、私は四つの県を合わせた土地に封ぜられ、食戸は三万にもなる。いったいこれに見合うだけのどのような徳が私にあるのだろう。天下がまだ静まっていないので、官位は譲ることはできないが、だが封土ならば辞退することができる。そこで今、陽夏・柘・苦の三県、食戸二万を返還し、ただ武平の万戸だけを食むこととし、とりあえずは私に対する批判の議論を分散させ、私の責務を少しく軽減したいと思うのである。」と。1-p.32*, 1-p.071** 只今、制作中です。