建安20年(21561歳:巻8「張魯伝」裴注引『魏名臣奏』:董昭の上表に、「武皇帝(曹操)は、涼州の従事や武都の投降者たちが、張魯を攻撃するのは容易だ、陽平城は守りにくい、と言っていたことを信じたが、実際に行ってみると、聞いていたのとは違っていたので、他人の判断は、自分の思いと一致することは少ないものだと歎じた。陽平山の軍営を攻めたとき、多くの負傷者が出た。曹操は弱気になってすぐに退却しようとしたが、偶然、敵陣に迷い込んだところ相手が退散した。かくして軍を進めて勝利した」と。また、楊曁の上表に、「武皇帝がはじめ張魯を伐ったときには、十万の衆を率いて自ら出陣し、計略を授け、住民の麦を軍糧とし、張衛の守りなど取るに足りないとしていたが、苦戦し、対峙すること三日、軍を引き返そうとして、「軍を作ること三十年、一朝、持ちて人に与えるは、如何」と言っていたが、撤退の計画が定まってから、張魯が自壊、それで平定できたのだ」と。1-p.265*, 2-p.128** 只今、制作中です。