「大曲」の編者(2)

昨日の続きです。
『宋書』楽志三所収「大曲」の諸歌辞は、
一篇の例外を除いては、「荀氏録」に記されていません。
その例外は、「荀氏録」に瑟調として記されている「艶歌羅敷行」です。
『宋書』楽志三では、この歌辞は「大曲」に列せられています。

この例外は、とても奇妙であり、また示唆に富んでいます。

「荀氏録」は、「艶歌羅敷行」を瑟調として記録する。
そしてこの歌辞は、『宋書』楽志では「大曲」に属するものとされている。
「大曲」には、王僧虔「技録」では瑟調とされているものが多い。

それではなぜ、「艶歌羅敷行」以外の「大曲」歌辞(瑟調)は、
「荀氏録」の瑟調に記されていないのでしょうか。
具体的には、次の諸篇です。

  01「東門・東門行」古詞
  02「西山・折楊柳行」文帝(曹丕)詞
  04「西門・西門行」古詞
  05「黙黙・折楊柳行」古詞
  06「園桃・煌煌京洛行」文帝(曹丕)詞
  07「白鵠・艶歌何嘗」古詞
  09「何嘗・艶歌何嘗行」古詞
  10「置酒・野田黄雀行」東阿王(曹植)詞
  13「王者布大化・櫂歌行」明帝(曹叡)詞
  14「洛陽行・雁門太守行」古詞

これらの歌辞は、南朝宋の王僧虔「技録」では瑟調曲として記されています。
西晋王朝においても、基本それらは瑟調で演奏されていたでしょう。
「大曲」とは、その曲調による演奏に、多く「艶」「趨」が付く組曲だと捉えられます。

では、これらの歌辞はなぜ、かの「艶歌羅敷行」と同じように、*
「荀氏録」に瑟調として記録されていないのでしょうか。
その理由を、次のように推測してみました。

「大曲」の編成は、荀勗のあずかり知らぬところで行われた。
「艶歌羅敷行」は当初、荀勗によって「清商三調」の瑟調に組み入れられていたが、
その後、「大曲」が編成されたときに、新たにこちらに組み入れ直された。
『宋書』楽志三は、その最終バージョンの西晋宮廷音楽の記録であり、
「荀氏録」は、その当初の構成を伝える資料である。

このように見てくると、『宋書』楽志三にいう「清商三調」と「大曲」とは、
同じ人物によって編成されたとは考えにくいように思います。

2023年5月9日

*「艶歌羅敷行」は、王僧虔「技録」には記録が見えないが、その瑟調には「艶歌何嘗行」「艶歌福鍾行」「艶歌双鴻行」のように、類似する楽府題が複数見え、これらはいずれも同じ瑟曲調の「艶歌」なのだろうと推測される。また、『楽府詩集』巻28所収「陌上桑」に、別名を「艶歌羅敷行」というと注記され、それに続けて引く『古今楽録』に「陌上桑は瑟調を歌ふ」とある。要するに、「艶歌羅敷行」は、「荀氏録」にも言うとおり、西晋から六朝末まで、瑟調曲として演奏されていたと見てよいだろう。