「防輔」という官吏
こんにちは。
曹植「黄初六年令」を読み始めて、
以前こちらでも取り上げたことのある『袁子』に再会しました。
吾昔以信人之心無忌於左右、
深為東郡太守王機防輔吏倉輯等枉所誣白、獲罪聖朝。
わたしは昔、人を信じる心から、左右の者たちを忌み嫌うことはなかったが、
東郡太守の王機や防輔の吏の倉輯らからひどい讒言を受け、聖なる朝廷に罪を得た。
ここに見える「防輔」の意味を調べていてのことです。
『袁子』(魏の袁準『袁子正書』)は、
魏王朝が諸王諸侯に対して、相互の交流を禁止し、
朝廷に参内することも赦さなかったということを述べた後、
次のように記しています。
諸侯游猟不得過三十里。又為設防輔監国之官、以伺察之。
諸侯は游猟するに三十里を過ぐるを得ず。
又為(ため)に防輔・監国の官を設けて、以て之を伺察せしむ。
(『三国志(魏志)』巻20・武文世王公伝の裴松之注に引く)
この同時代資料によると、
「防輔」は「監国」と同様、諸王を見張る役だったと知られます。
同じ意味でのこの語は、こちらでも触れた、
『三国志(魏志)』巻20・中山恭王袞伝にも見えていました。
「監国」はともかく、「防輔」という語は用例が少なく、
中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」で検索すると、
二十四史における「防輔」は、『三国志』に見える上記の2例のみです。
朝廷が諸王の動静を見張る「防輔」という官職は、
この曹魏王朝に特有のものであったと見てよいでしょう。
2022年8月8日
★津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)の第三章「曹魏における諸王政策の実態」に、「防輔と監国謁者」と題する、事例に基づいた詳細な論考が見えます。(2022年10月31日追記)