『焦氏易林』と歴史故事(承前)

こんばんは。

昨日紹介した論文、劉銀昌「『焦氏易林』詠史詩探析」には、
歴史故事を詠じたいくつもの興味深い四言詩が取り上げられています。
その中から二首ほど紹介し、思ったことを述べます。

まず、『焦氏易林』巻4、「中孚」之「困」に見える次の辞句です。

武陽漸離  秦舞陽と高漸離は、
撃筑善歌  筑を打ち鳴らしてよく歌を歌う。
慕丹之義  燕の太子丹の心意気を慕い、
為燕助軻  燕のために荊軻を助けた。
陰謀不遂  だが、陰謀は成し遂げられず、
矐目死亡  目をつぶされ死んでしまっては、*1
功名何施  その功名もどうして広く知れわたることがあろう。

ここに詠われているのは、『史記』巻86・刺客列伝(荊軻)に記された、
荊軻に伴って秦へ向かった殺し屋の秦舞陽と、荊軻の親友で筑の名手であった高漸離です。

次に紹介するのは、『焦氏易林』巻3、「姤」之「震」に見える次の辞句です。

二桃三口  二つの桃に三つの口では、*2
莫適所与  (斉の景公が)与えたものとの間に合致することがない。
為孺子牛  (斉の景公は)吾が幼子のために牛を演じるような真似をし、
田氏生咎  これだから、田氏(田乞)が反乱を起こすという禍を生じたのだ。*3

この前半二句は、『晏子春秋』巻2・諫下「景公養勇士三人無君臣之義晏子諫」に記された故事で、
その内容は、斉の景公に仕えた三勇士、古冶子・田開疆・公孫接を、
晏嬰が、自ら手を下すことなく、二つの桃を用いて死に至らしめたというものです。
(以前、こちらでも触れたことがあります。)

後半の第三句は、『春秋左氏伝』哀公六年に記された、
斉の景公が、我が子(荼、後の晏孺子)のために自ら縄をくわえて牛のまねごとをし、
縄を引く荼がころんで、景公は歯を折った、という故事を指しています。

最後の第四句にいう田乞の反乱とは、『史記』巻32・斉大公世家に記す、
景公の没後に晏孺子を廃し、その異母兄の陽生(悼公)を立てたことを指して言います。

この他、『焦氏易林』巻2の「臨」之「同人」に、いわゆる「管鮑の交わり」が、
同じく巻2「臨」之「泰」、巻4「漸」之「睽」に、伍子胥の故事が、
また、巻2「賁」之「升」に、藺相如の故事が見えることを、劉銀昌氏の所論は指摘しています。

これらはいずれも、人口に膾炙した親しみやすい歴史故事です。
直接、『史記』『晏子春秋』『春秋左氏伝』などを閲覧して援用したというよりも、
すでに広く民間に流布した物語に借りて、易の理の様々な局面を説いて見せたという印象です。

2021年4月14日

*1「矐目」、叢書集成初編所収の『焦氏易林』は「霍自」に作り、「自」に対して「別本作目」と注記する。『史記』巻86・刺客列伝(荊軻)に「秦皇帝惜其善撃筑、重赦之、乃矐其目(秦の皇帝(始皇帝)は其(高漸離)の善く筑を撃するを惜しみ、重ねて之を赦し、乃ち其の目を矐(つぶ)す)」とあるのに拠り、今このように改める。劉銀昌氏の論文もそのように改めている。
*2「二桃」、叢書集成本『焦氏易林』は「一身」に作り、「別本作三桃」と注記する。「三」は「二」の誤写と見てこのように改める。劉銀昌氏の論文もそのように改めている。
*3「生」字、叢書集成本『焦氏易林』は「主」に作り、「別本作生」と注記する。今、この別本に従う。劉銀昌氏の論文も同じ。