曹植が見ていた絵画(承前)

曹植の「画賛序」(あるいは「説画」)に関連付けられると思われる「賛」。

『曹集詮評』巻6に収録されるそれらの「賛」は、皇帝を称えた作品が圧倒的多数を占めています。
これは、そうした作品が残りやすかったためと見るのが妥当でしょう。
唐代初めの類書『藝文類聚』巻11・12「帝王部」に、そのほとんどが収録されています。

そのような作品群を縦覧する中で、「古冶子等賛」に思わず目を留めました。
『太平御覧』巻754「工芸部(博)」に引く次のテキストです。

斉卿接子  斉の田開疆や公孫接らは、
勇節侚名  節義を守り通す勇敢さを持ち、名誉のためには死をも辞さない烈士である。
虎門之博  王宮の正殿の門で博奕(ばくち)に打ち興じていて、
忽晏置釁  晏子をないがしろにしたため、彼に仲たがいの謀略を設けられた。
矜而自伐  三人は高いプライドによって自らを罰し、
軽死重分  死を軽んじて、人として守るべき道義を重んじた。

古冶子・田開疆・公孫接の三人は、斉の景王に仕えた勇士です。
彼らの態度を無礼と感じた晏子は、自ら手を下すことなく、二つの桃を送り込み、
彼らの自尊心をうまく利用して、互いに節義を張り合って自らを死に追い込むよう仕向けました。

これは、いわゆる「二桃殺三士」と呼ばれる説話で、
『晏子春秋』巻2・諫下に「景公養勇士三人無君臣之義晏子諫」第二十四として記されています。
楽府詩「梁甫吟」(『藝文類聚』巻19、『楽府詩集』巻41)にも歌われ、
更に、漢代画像石(墓壁などを飾る線描図像)の題材としても非常にポピュラーなものです。

そして、この故事を記す『晏子春秋』の文体や、それを描く画像石の配置状況を考え合わせると、
それは、目よりも耳で愉しむ、宴席文芸として行われていたと推測されます。
(このことは、かつて学術論文38で論じました。詳しくはこちらをご覧いただければ幸いです。)
だからこそ、宴席との親和性が高い楽府詩にも取り込まれたのでしょう。
(このことは、学会発表17で論及しました。)

曹植は、そうした故事「二桃殺三士」に取材する賛を作っている、
そして、昨日言及した「画賛序」(あるいは「説画」)の存在が示す通り、
この賛もまた、他の賛と同じく、図像に寄せられたものであったと見るのが妥当でしょう。

こうしてみると、曹植が目にしていた図像は、
一方に立派な古代の君主を描く一方、一方には通俗的な故事をも描いていたということになります。
これは、たとえば武梁祠(山東省嘉祥県)の画像石と極めて近しいものがあります。*

それではまた。

2019年11月26日

*長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)に詳しい。