中国の論争

こんばんは。

ほとんど1ヵ月もの間、何も書けないでいました。
またここから再出発します。

蔡琰の作として伝わっていた「胡笳十八拍」について、
その真偽問題をめぐる、1960年前後の中国の学界動向を紹介した、
入矢義高「紹介「胡笳十八拍」論争」(『中国文学報』13、1960.10)を縦覧しました。

蔡琰「胡笳十八拍」は真作だと主張する郭沫若の所論に端を発する論争を、
ほぼ時系列で詳しく紹介しながら、要所要所で入矢義高のコメントが入っていきます。

その中で、繰り返し述べられるのが「論争のルール」ということです。
「挙げ足取りや強辯のうまさといった部分的なことではなくて」、
「一部の学者に見られた突飛な着想の独走よりも」重要な、
その「論争のルール」とは何でしょうか。

膨大な情報量をさばいていく入矢義高の所論の後を追いかけていきながら、
(いや、実際にはその紹介文についていくことが難しかった。)
その次々と押し寄せる論争内容に呆然とする中で、
ひとつ思ったのは次のようなことです。

彼らの、相手の述べることに対して全く耳を傾けようとしない姿勢、
自説を主張するばかりの、自己を相対化する意識の欠如、
これは、一歩間違えば自分にも起こり得ます。
こわいと思いました。

ところで、以前、
五言詩の成立時期に関する、民国時代の論争について、

その経緯を辿ったことがありますが(こちらでも言及した、学術論文№16)、
それが、「胡笳十八拍」論争とほぼ同質の雰囲気であったことを思い出します。
ほんの少し前の先人の説にさえ見向きもしないことでも、両者はとてもよく似ています。

そんな熱狂的な雰囲気の中で、短期間のうちに作られた現在の通説に、
いつまでも縛られている必要があるだろうか。
やっぱり疑問に思います。

2021年10月14日