元白交往詩雑感(3)
こんばんは。
昨日、元和十四年に書かれた白居易の詩「寄微之」を、
「友の心には響かない慰めの詩」と、些か厳しい言葉で言い表しましたが、
これは、白居易がそのような人物であると言っているのではなく、
むしろ、彼がそのような詩を書き送ったのはたいそう意外であるという意味です。
元稹はこの年の秋、娘を亡くすという悲痛のどん底にありました。
彼が白居易から寄せられた詩を前に、何か心ここにあらずといった様子であったのは、
このことが大きく影響しているのではないでしょうか。
では、白居易は、元稹の身に起こったこの不幸を知っていたのかどうか。
私は、知らなかったのだと考えます。
知っていれば、このことを無視したまま官界での不遇を慰めるというような、
薄情無粋なことを彼はしなかったはずだと思うからです。
白居易も、この年の元稹と同様に幼い娘を亡くしたことがあって、
そのことをどうにも呑み込めない苦しみを、たとえば次のように詠じています。
与爾為父子 お前と親子となってから、
八十有六旬 八百六十日。
忽然又不見 突然またお前の姿が見えなくなって、
邇来三四春 以来三四年の春が過ぎていった。
形質本非実 あの子の肉体は、もともと実体のあるものではなく、
気聚偶成身 気が寄り集まって、たまたま人の身体の形となったのだ。*
恩愛元是妄 親子の情愛など、元来が虚妄なるものであって、
縁合暫為親 因縁が交錯して、しばし親子関係を結ぶことになっただけだ。
念茲庶有悟 こう繰り返し自分に言い聞かせて、心の迷いが晴れるようにと切望し、
聊用遣悲辛 とりあえずはそうやって悲しみや辛さを追い遣ろうとしたのだったが、
暫将理自奪 しばしの間そんな理屈で自分自身の本性を奪い去っていただけであって、
不是忘情人 もともと私は情を忘れた聖人ではあり得ないのだった。
白居易が長女の金鑾を亡くしたのは元和6年(811)ですが、
本詩「念金鑾子二首」又一首(『白氏文集』巻10、0469)は、元和8年に作られたものです。
時を隔ててなお、亡き娘のことが忘れられず、こうして詩に詠じたのは、
たまたま金鑾の乳母だった女性に出会ったからだと一首目の詩(0468)にはありますが、
それ以上に、白居易が多情多感な人だったからではないでしょうか。
このような人は、親友が大切な娘を亡くして落胆していることを知っていれば、
きっとまず第一にこのことを慰めたでしょう。
(かつて妻の韋叢を亡くした元稹に対してそうであったように。)
おそらくは元稹も、白居易のこうした性情を熟知していて、
それで、自身の身内の不幸には触れず、「唯だ秋来両行の涙有り」と詠じたのではないか。
そして、「君に対して新たに贈らん遠き詩章」とは、別途また詩を贈ろうという意味ではないか。
先には保留にしていた問題について、こんなふうに考えた方がよいかと思いました。
2021年1月13日
*『荘子』知北遊篇に、「人之生、気之聚也。聚則為生、散則為死。若死生為徒、吾又何患。故万物一也(人の生は、気の集まったものだ。集まれば生となり、散ずれば死となる。もし死生を同族とみるならば、吾はこれ以上何を思い煩うことがあろう。もとより万物は一つなのだ)」と。