先行研究との付き合い方(続き)

以前複数回にわたって取り上げた(直近は2020.07.29)「怨歌行」の作者について、
まったく同じ問題を真正面から論じている先行研究があります。

矢田博士「「怨歌行」の作者について
  ―曹植における〈詠史詩〉の手法を手がかりとして―」(『中国詩文論叢』11、1992年)です。

先に自分なりに試行錯誤していた際には言及できていませんでした。
傾聴すべき先行研究として、自分なりにまとめた概要をここに書き留めておきます。

「怨歌行」は、明帝に疎外された曹植が、同様な境遇の周公旦に自らを擬えた作品とされている。
この定説が妥当と考えられる論拠として、次のようなことが指摘できる。
 ・「怨歌行」は、冒頭で主題を提示し、それに適合する史実を詠ずるという手法を取る。
 ・このような手法は、曹植に特有のものと認められる。
 ・「怨歌行」が詠ずる周公旦について、その不遇に注目するのは曹植作品のみである。
 ・曹植は、周公旦とその境遇が類似するという自己認識を持っていた。
 ・曹植は、自己の不遇に対する憂憤の情を述べるため、この種の〈詠史詩〉を作った。

特に、周公旦の不遇を詠ずるのは曹植の詩歌のみだ、という指摘には教えられました。

矢田論文は、上記の論証のほか、曹植が〈詠史詩〉の展開に果たした役割にも論及しています。
〈詠史詩〉を、歴史故事を題材とする詩歌全般とみなしている点において、
私のこのジャンルの生成展開に対する把握の仕方とは異なります。
(もしよかったら、こちらの学術論文№42をご覧ください。)

同じようなテーマで、いきおい用いる資料も似通っていると、
既存の説を重ねて言っているように見なされてしまう場合もあるかもしれません。
ですが、論文の肝は資料の解釈にあると思っています。
どこに視点を置けばいちばん鮮やかな像を結ぶか、ということです。
この点、先行研究を先に見てしまうと、自由なピント合わせがしにくくなります。
最も適切な視点の置き所は、第一次資料が教えてくれると思っています。

2020年8月5日