宴席文芸としての遊仙詩
過日、五言遊仙詩の生成過程について推論しました。
その後しばらく、このテーマで考察することはなかったのですが、
先日、曹植「遊仙」詩の次の冒頭句に目が留まりました。
人生不満百 人の一生は百年に満たないのに、
戚戚少歓娯 くよくよと思い悩んで歓楽を味わうことも稀である。
意欲奮六翮 いっそ翼を奮い立たせて、
排霧凌紫虚 立ち込めた霧を払いのけ、紫の虚空を凌駕したいものだ。
このような辞句と発想は、
次に示す詩(『文選』巻29「古詩十九首」其十五)を彷彿とさせます。
生年不満百 人生は百年にも満たないのに、
常懐千歳憂 いつも千年の愁いを抱えている。
昼短苦夜長 昼は短く、夜はあまりにも長すぎる。
何不秉燭遊 ならばどうして燭を手にして遊ばないのか。
為楽当及時 楽しいことをするのに時機を失ってはならない。
何能待来茲 どうして来年まで待っていられよう。
愚者愛惜費 愚か者は散財するのを惜しんで、
但為後世嗤 ただ後世の笑いものとなるのが落ちだ。
仙人王子喬 永遠を生きる仙人の王子喬とは、
難可与等期 とても同じようには長生きできないのだから。
この古詩は、宴で歌われた詩歌と見てよいでしょう。
そもそも古詩は、宴席という場で展開してきた文芸ジャンルです。*
そんな古詩に酷似する辞句を、同じく冒頭に置く曹植の前掲詩は、
この古詩と同様に、宴席を舞台に詠じられたと見ることができるかもしれません。
ただ、両者は同じ人生無常への慨嘆を起点としながらも、
その先に向かう方向が異なっているように見えます。
古詩は、現世での享楽にはしり、しかも仙人の非現実性に言及しています。
一方、曹植「遊仙」詩は、現実の対極にある仙界へと飛翔するのです。
けれども、両者の方向性は、まったく異質だと言えるかどうか。
というのは、神仙は宴席で披露される芸能の題材ともなっていたからです。
(このことは、かつてこちらで述べました。)
2023年6月30日
*柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)をご覧いただければ幸いです。