弟思いの曹植
こんにちは。
本日、曹植「雑詩六首」其四の訳注稿を公開しました。
南国の美人に託して、
すばらしい才能を持ちながら、不遇なまま時の過ぎゆくのを嘆く詩です。
黄節は、この詩にいう「佳人」を呉王曹彪と比定していて、私もこの説に賛成です。
曹植が自身の不遇を嘆いていると解釈する説もあるようですが、
それだと、本詩が多く『楚辞』を踏まえている理由が宙に浮いてしまうように思います。
まず、『楚辞』を踏まえる以上、本詩は南方の長江流域を強く想起させますが、
曹植自身がそうした地域に封ぜられたことはありません。
また、『楚辞』といっても、屈原が自身の不遇を嘆く「離騒」等ではなく、
麗しい人の様子を描写する「九歌」や「大招」の辞句を、本詩は多く踏まえています。
屈原のひとり語りの部分ではなく、第三者を描写する部分を多く踏まえている、
となると、本詩の美人を自身の仮託と見ることは難しくなります。
特に誰かを想定しているわけではない、とする説も弱いと思います。
だったらなぜ、敢えて『楚辞』をあれほど踏まえるのか、説明できなくなりますから。
このように見てくると、黄節の見立ては極めて妥当だと思われます。
そして、もしそうだとすると、改めて思うのが、曹植という人の愛情深さです。
曹彪が呉王であった黄初三年から五年の間、曹植自身も苦境の中にあったはずなのに、
遠い南方で不遇の内に沈んでいる弟を繰り返し思い遣っているのです。
(「雑詩六首」の其一も、曹彪を思って詠じられた詩だと推定できます。)
弟の境遇が、自身の苦境と重なって、よけい切実に思われたのかもしれません。
また、兄弟相互の往来を禁じられて、一層弟への思いが募ったということも考えられます。
なお、曹彪には曹植に宛てた「答東阿王詩」(『初学記』巻18、離別)が残っています。
最期は、嘉平元年(249)、王淩らに擁立され、自殺に追い込まれました(『三国志』巻20本伝ほか)。
何か一途な、曹植と気持ちが通い合うような一面を持っていた人なのかもしれません。
2020年6月6日