徐幹「室思」と曹植「贈徐幹」

先日来見てきたように、
徐幹の「室思」詩六章の特に其六は、

男女の離別と愛情をテーマとする閨怨詩に託して、
君主への思いを詠ずる詩であったと見ることが可能なようです。

ただし、それは当時にありふれた閨怨詩の様式を取っているだけに、
その中に込められた作者の思いは顕著に表れてはいません。
その韜晦は、徐幹その人の意図したところでしょう。
彼は表立って、君主に振り向いてほしいなどとは言えなかった。
だから、あのような様式でその思いを表現したのだろうと思うのです。

もしこの推測が多少なりとも当たっているならば、
曹植の「贈徐幹」詩は、徐幹のその秘められた思いを掬い上げ、
これに対して真正面から応えようとした作品だと言えるかもしれません。
いかにも若者らしい、初老の徐幹には面はゆいような応対だったでしょうけれど。

別に、曹植には「贈王粲」詩という作品もあって、
これは、王粲の「雑詩」に対して応えた詩だと見られています。

徐幹「室思」も王粲「雑詩」も、特定の誰かに宛てた作品ではありません。
ところが、曹植はそれをしかと受けとめ、それに応える詩を作者に贈っているのです。

特定の人間同士でやり取りされる詩は、漢魏においても特に珍しくはないものです。
けれども、前掲二首の曹植詩は、そうした一般的な贈答詩とは異なります。
誰に宛てられたわけでもない言葉を、彼は心の真ん中でまっすぐに受け留めた、
だからこそ、その言葉を発した人物に応える詩を贈ったのです。

このような言葉の授受の中に、
現代人にも通じる「文学」の萌芽を認めることができるように思いますが、*
(このような捉え方は、少しばかり大げさなのかもしれないけれど)
それは、曹植という“受け留める人”がいたからこそだなのだと言えるかもしれません。

2026年3月24日

*柳川順子「五言詩における文学的萌芽―建安詩人たちの個人的抒情詩を手掛かりに―」(『中国文化』69、2011年)を参照されたい。