愛情に恵まれすぎた人

昨日、長かった曹植「七啓」のテキスト入力がやっと終わりました。
今更ながらの作業であろうことは承知の上です。)
丁晏纂・葉菊生校訂『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)の句読点に従って全443句、
初めて見るような漢字も多く出てくるし、何を言っているのかさっぱりわからない。
そこで、せめて概略だけでもと思い、集英社・全釈漢文大系『文選』の訳注を開いてみると、
目に飛び込んできたのは、最後の部分です。

曹植は、父曹操を絶賛していました。
人間社会からかけ離れたところに隠居していた玄微子に対して、
鏡機子は曹操のことを指して「天下 穆清にして、明君 国に莅(のぞ)む」といい、
この言葉に、それまで躊躇していた玄微子が始めて心を動かした、という急転直下の結末です。

この作品は、その序に、王粲にも同じ「七」作品を作らせたと記されています。
王粲は、建安13年(208)、曹操が荊州を下したときに曹魏の幕下に入り、
建安22年(217)、疫病によって亡くなっていますから、
「七啓」の成立年代は、広く見積もって、曹植の年齢で17歳から26歳までとなります。
こちらの「曹植関係年表」を併せてご参照いただければ幸いです。)

この間の最末期、曹植は不届きな行動によって父曹操に見放されますが、
そこへ至るまでの間、彼はその才能と飾らない人柄により、父の愛情を独占していました。

「七啓」に見える上述のような父(主君)曹操への傾倒ぶりは、
その年齢の若さによるのでしょうが、自身が受けた愛情の大きさゆえにでもあったでしょう。
政治的にうまく立ち回らんがための巧言、とは読み取りにくいように感じます。

兄の曹丕が文帝として即位して後、曹植は黄初六年(225)の令に、*
「吾は昔、人を信ずるの心を以て、左右を忌むこと無し」と述べていますが、
誠にそのとおり、彼は青少年時代、愛情に恵まれすぎた人であったのかもしれません。

それではまた。

2020年2月15日

*『曹集詮評』巻8所収。影弘仁本『文館詞林』巻695(古典研究会、1969年)p.430は「自試令」に作る。