描かれた列女伝
漢代、列女伝・孝子伝・列士伝・列仙伝の類は、
図画とともに伝えられていた可能性が極めて高いことを昨日述べました。
こうした図画入りの伝を、
多くの論者は、儒教的規範を広めるためのものと捉えています。
儒教が国家の教えとしてすでに定着していたこの時代、これは順当な解釈でしょう。
ただし、目を留めたく思うのは、そうした文物が持つニュアンスです。
後漢の順帝の皇后となった、梁商のむすめ梁妠について、
『後漢書』巻10下・皇后紀下には次のような記録が見えています。
少善女工、好史書、九歳能誦『論語』、治『韓詩』、大義略挙。
常以列女図画置於左右、以自監戒。
幼少の頃から女性としての仕事をよくこなし、歴史書を好み、九歳にして『論語』が暗誦し、『韓詩』(『詩経』解釈の一派)を学び、それらの概略を理解していた。
常に列女の図画を身近に置いて、自らを戒めるよすがとしていた。
この後に、彼女が十三歳で後宮に入ったという記述が続いていることから、
先に示した記事は、それ以前のことを述べるものだと知られます。
つまり、「列女図画」は、少女にも親しみやすい文物であったということですね。
また、後漢の光武帝について、
『後漢書』巻26・宋弘伝には次のような逸話が記されています。
弘当讌見、御坐新施屏風、図画列女、帝数顧視之。*1
弘正容言曰、「未見好徳若好色者。」帝即為徹之、笑謂弘曰、「聞義則服、可乎。」*2
宋弘が光武帝に宴見(くつろいだ場での謁見)したとき、そこに新たに屏風が設けられ、列女の図画が描かれていて、皇帝は何度も振り返ってそれらの絵に見入っていた。
弘が顔つきを正して、「未だ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ず」と言うと、皇帝は即座にこれを撤収して、笑って弘にこう言った。「義を聞きて則ち服す、これでよろしいか。」
光武帝は、列女伝が記す教訓的な故事の内容よりも、
絵が描き出す彼女たちの凛々しく麗しい姿に魅了されたのですね。
絵図を伴う列女伝は、こうした享楽的な雰囲気の中でも受容されていたのでしょう。
更に、こうした女性たちは、曹植の「鼙舞歌・精微篇」(『宋書』巻22・楽志四)にも詠じられ、
今は伝わらない漢代の「鼙舞歌・関東有賢女」も、同様の内容を持っていたと推測されます。
(詳しくは、こちらの学術論文№39をご参照ください。)
鼙舞は、漢代の宴席で演じられていた舞踊です(『宋書』巻19・楽志一)。
すると、図画を伴う列女伝の内容は、そうした場にもよく馴染むものであったと言えるし、
その中には、語り物として上演されていた故事もあるかもしれない。
ここまでが、現時点で明言できることです。
それではまた。
2019年12月7日
*1 「施」字は、『藝文類聚』巻69に引く『東観漢記』に拠って補った。
*2 「未見好徳若好色者」は、『論語』子罕篇にいう「子曰、吾未見好徳如好色者也」を踏まえ、「聞義則服」は、『論語』述而篇にいう「……聞義不能徙也、……是吾憂也」をもじったもの。『論語』を援用しながらの戯れの応酬である。