敢えて漢文で記すこと

こんにちは。

今日、大学主催のオンライン講座で、
「厳島八景」の選定者は誰なのかという話をしました。

一般に、宮島の光明院の恕信がその中心的企画者であったとされていますが、
実は、恕信の依頼を受けた、石清水八幡宮の社官、柏村直條こそが、
その真の立役者であったと言ってよいだろうと私は考えます。*1

このことを示す資料のひとつとして、
柏村直條による「厳島八景和歌(「柏」軸)」の跋文があります。*2

彼は、この跋文において、
自身の和歌題詠のことには一切触れず、
もっぱら、公家たちの「厳島八景和歌」奉納に至った経緯を、
漢文で、逐一的な日付とともに記しています。

序文の方は和文で書かれていることを思えば、
この跋文は敢えて漢文で記されたと見ることができるでしょうか。
和文による序文と、漢文による跋文とでは、
同じ出来事を対象としつつも、その記述の力点にかなりの違いが認められます。

柏村直條は、恕信の願いに深く共鳴し、
「厳島八景」の選定と和歌題詠の実現に向けて奔走しましたが、
その働きかけを受けた公家たちは、すぐにそれに応じることができませんでした。
その間の事の経緯を、事実として書き記しておきたい、
それには、もともと外来の公用語である漢文が一番ふさわしい、
(和文だと、もろもろのしがらみから完全に自由ではいられないでしょう。)
そのように柏村は考えたのかもしれません。

2021年7月3日

*1 かつてこちらの学術論文№35で、この問題を論じたことがあります。本日、その草稿を公開しました。(訂正したいと思う部分も多々ある未熟なものですが、そのまま挙げています。)
*2 朝倉尚「「厳島八景」考―正徳年間の動向―」(『瀬戸内海地域史研究』2号、1989年)による翻刻を参照。