文字資料の向こう側
少し間が空きましたが、
先に示した曹植の「古冶子等賛」の中に、次のような句がありました(再掲)。
虎門之博 王宮の正殿の門で博奕(ばくち)に打ち興じていて、
忽晏置釁 晏子をないがしろにしたため、彼に仲たがいの謀略を設けられた。
この上の句の「博」字について、
趙幼文は、「搏」に作るべきではないかと疑義を呈し、
『春秋左氏伝』昭公十年に記す、次のような斉の内部紛争に結び付けて解釈しています。*1
斉の景公のとき、欒・高両氏の勢力が、陳・鮑両氏の勢力と対立、
陳・鮑両氏に攻められた高氏が、景公を抱き込もうと虎門(正殿)にやってきたところ、
晏子は虎門の外に立ち、両派のいずれにも加担しなかった。
後に、晏子は勝利した陳桓子に、戦利品を景公に差し出すように勧め、桓子はこれに従った。
つまり、「虎門での戦いにおいて」と上句を解釈するのが趙幼文の説です。
(ただし、『左伝』には、三勇士の名も、晏子による桃を用いた謀略も見えていません。)
他方、曹植の前掲の賛を引くのは『太平御覧』巻754の「工芸部(博)」でした。
『太平御覧』は、北宋の成立ではありますが、その時期に一から編纂されたのではなくて、
実は、六朝期及び初唐に成った複数の類書を切り貼りして出来上がったものです。*2
ということは、六朝末頃までは、曹植の賛は「博」に作っていたと判断せざるを得ません。
でないと、工芸部の博の条に採録されるはずがありませんから。
また他方、『晏子春秋』諫下には次のように記されています。
公孫接・田開疆・古冶子事景公、以勇力搏虎聞。晏子過而趨、三子者不起。
つまり、三勇士は、虎を打ち負かすほどの勇気と腕力で知られていたが、
晏子が彼らの前を通り過ぎる際、小走りして敬意を表したのに、三人は起き上がらなかった、と。
そして、この後、晏子は景公に、彼らを消し去るよう進言した、という記事が続きます。
こうしてみると、
曹植が聞き知っていた「二桃殺三士」の故事は、『晏子春秋』とも一致しません。
『晏子春秋』には、彼らが「虎門のところで博奕に打ち興じていた」との記述は見えません。
先にも書いたように、
『晏子春秋』のこの部分には、語り物的な要素が認められるとかつて論じたことがありますが、
それは、当時語られていた言葉をもれなく記述するものではなかったのでしょう。
あるいは、語られている故事には、複数のバージョンがあって、
そのうちの一つでは、三人が虎門の前で博奕をしていたことになっていたのかもしれません。
曹植の賛の読みには、自分でもまだ釈然としないところを残しているのですが、
少なくとも、文字資料がすべてを今に伝えているわけではないとは確実に言えるでしょう。
その向こう側には、おびただしい数の語られる言葉が躍っていたのだろうと想像します。
それではまた。
2019年12月2日
*1 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻1、p.90を参照。
*2 勝村哲也「修文殿御覧の復元」(山田慶児編『中国の科学と科学者』京大人文研、1978年)を始めとする一連の論考を参照。