文学を俯瞰する視点
こんばんは。
一昨日話題にした、文学は俯瞰できるかという問題。
私は、そのこと自体は可能だと考えます。
ただ、文学の歴史を捉え、語る上で、その視点が重要だと思うのです。
たとえば、人類の歴史はある方向に向かって流れていると捉え、
(こうして捉えられる人類史には、精査されていない前提が多く紛れ込んでいます。)
その大きな流れの中に、個々の作者や作品を位置付けるという方法は、
その大きな視点を持ち得ない私には不可能です。
(幾多の史料や作品を読み込んだ大学者は話が別だと思いますが。)
以前、平安朝の大江千里『句題和歌』を論じたことがあります。(こちらの№23)
千里は、漢詩句を題に掲げてそれを和歌に翻案する、
いわゆる句題和歌という新しいジャンルを創始した歌人ですが、
本歌集は、この分野の初期作品だけに、漢詩直訳調で完成度が低いとされています。
ですが、作品を評価することよりも(どの地点からの評価でしょうか)、
なぜ彼がそのような新しいスタイルの歌を創始したのか、
そちらの方が、よほど重要なのではないかと私には思われてなりませんでした。
彼は、和歌の世界に新風を巻き起こそうとして「句題和歌」を創始したわけではありません。
自らを苦境から救い出すために、この諧謔的なスタイルを作り出したのです。
個々人の生の証として残された文学作品。
それらを作者の立ち位置に寄り添って精読していくと、
その作者が新しい表現を創出しないではいられなかった必然性が見えてきます。
そして、その思いを受け取った別の誰かが、敬愛の気持ちとともにその表現を継承する、
その手渡されてゆく言葉のリレーをたどることこそが、
文学史研究なのだと私は考えています。
(同様のことは、こちらの著書№4の終章でも書いています。)
繰り返し同じことを言うようで恐縮ですが、これは一貫した思いです。
2021年3月7日