曹丕も薄葬

こんばんは。

昨年の冬、九州国立博物館で開催された特別展「三国志」を見に行って、
曹魏の墓の埋葬品が、立派な蜀のそれと比べて非常に質素であることに打たれました。

その図録に収録する陳彦堂「曹操高陵の考古発見と研究」第四章に、
「高陵が反映する曹魏時代の喪葬制度」と題して、曹魏の薄葬の実態が論じられています。

曹操と曹植が、それぞれの遺言に従って質素に葬られたとは認識していましたが、
曹丕もそうであったとは、この論文を通して初めて知りました。

『三国志』巻2・文帝紀に記された曹丕の葬儀に関する記事、
「自殯及葬、皆以終制従事(殯より葬に及ぶまで、皆終制を以て従事せしむ)」を、
先には、一般に規定する皇帝の葬礼制度に則って葬られたのだと解釈していたのでしたが、
こちらの学術論文№43では、この認識に基づいて論じています。要再考です。)
曹丕には「終制」という文章があって、それに具体的な指示が見えているのだそうです。
また、曹植「文帝誄」(『曹集詮評』巻10)に見える次のくだりからも、
曹丕が自らの「終制」どおりに埋葬されたことが確認できると述べられています。

乃創玄宇、基為首陽。 乃ち玄宇を創り、基づくに首陽を為す。
擬迹穀林、追堯慕唐。 迹を穀林に擬し、堯を追ひ唐を慕ふ。
合山同陵、不樹不疆。 山を合して陵と同じくし、樹へず疆せず。
塗車芻霊、珠玉靡蔵。 塗車芻霊、珠玉 蔵する靡(な)し。
百神警侍、来賓幽堂。 百神 警侍し、賓を幽堂に来らしむ。

ただし、魏末の阮籍「詠懐詩」其六十四は、
「首陽の基」を「松柏は鬱として森沈たり」と描写していますから、
あるいは文帝が埋葬されて以後、松柏がその陵墓に植えられたのかもしれません。

いずれにせよ、薄葬を命じた曹丕に対して、少し認識を改めました。

2020年8月23日