曹操の家庭教育

こんばんは。

曹操は生涯、その手から書物を手放すことはなかったといいます。
(『魏志』巻1・武帝紀の裴松之注に引く『魏書』)
こうした父の姿は、当然その息子たちにも無言のメッセージとして届いたでしょう。
曹丕が八歳で文章がうまく作れたのも(『魏志』巻2・文帝紀の裴注に引く『魏書』)、
曹植が十歳あまりで『詩経』『論語』『楚辞』や漢代の辞賦作品を朗誦し、
文章がうまく作れたのも(『魏志』巻19・陳思王植伝)、
彼らの父の薫陶によるものだと言えます。

加えて、曹操は、身寄りのない族子を、実子と一緒に育てました。
(このことは、すでにこちらに記しています。)

一方、曹操の自己認識には次のような変遷が認められます。
すなわち、実権を掌握した晩年、彼は自身を周文王や周公旦になぞらえましたが、
挙兵してほどない壮年期は、両漢王朝を創始した高祖劉邦や光武帝に自らを当てています。
つまり、この頃からすでに彼は覇者たらんことを心に期していたということでしょう。
(このことは、すでにこちらに記しています。)

中国全土を掌握しようとする野心と、前述の曹家の家庭教育とは、
同じ根に出るものとして考えるのが妥当かもしれません。

身寄りのない族子らを、実子と分け隔てなく育てて仲間意識を醸成し、
(当初私はこのエピソードを、曹操の懐の深さを示すものとのみ捉えていました。)
将来を託すに足る実子には、それ相当の教養を身に付けさせた曹操の家庭教育は、
いずれ、曹氏一族が、手強い知識人層を配下に従えることになる、
そんな時代の到来を予期してのことだったのでしょう。

それを自らの手で覆してしまったのは曹丕ですが、
曹丕をそのようにしてしまったのは、ほかならぬ曹操であったとも言えます。

2021年9月12日