曹植「責躬詩」への疑問1

こんばんは。

昨日やっと訳注稿を提示した曹植「責躬詩」について、
本日から、その不明点を記していきます。

本日は、原文・通釈のみを提示するファイルの9・10行目
「万邦既化、率由旧則。広命懿親、以藩王国
(万邦 既に化し、旧則に率ひ由る。広く懿親に命じ、以て王国に藩たらしむ)」と、
史実との食い違いに対する疑問です。

ここにいう「王国」は、
曹操の没(220年1月)後に曹丕が継承した魏王国ではなくて、
後漢王朝から受禅した(220年10月)後の魏王朝と見るのが自然でしょう。
直前の8行目に「受禅于漢、君臨万邦(禅(ゆず)りを漢に受け、万邦に君臨す)」とあり、
前掲の四句はこれを直に受けていることから、そう判断されます。

けれども、事実として、曹丕が骨肉の弟たちに封土への赴任を命じたのは、
彼が魏王に即位してすぐのことであったと見られます。

『魏志』巻19・任城王彰伝に、
「太祖崩。文帝即王位、彰与諸侯就国
(太祖(曹操)崩ず。文帝(曹丕)王位に即きて、(曹)彰は諸侯と国に就く)」とあり、
このことを命ずる詔が記された後に、黄初二年(221)の記事が続きますから。

また、曹植の「請祭先王表」(07-26)には、
(訳注は未完成ですが、こちらでひととおり通釈しています。)
「計先王崩来、未能半歳(計るに先王の崩じて来、未だ半歳に能(いた)らず)」、
「臣欲祭先王於北河之上(臣は先王を北河の上に祭らんと欲す)」とあって、*
曹操が亡くなって半年もたたない時期に、
曹植はすでに都の鄴を離れていることが知られます。

『魏志』巻19・陳思王植伝には、
「文帝即王位、誅丁儀・丁廙并其男口。植与諸侯並就国
(文帝は王位に即きて、丁儀・丁廙并びに其の男口を誅す。植は諸侯と並びに国に就く)」と、
曹植の封土への赴任は、丁氏兄弟が誅殺された時期(秋)以降のこととして記され、
前掲の「請祭先王表」の内容と矛盾していますが、
これは、本伝のこの直前に記された事柄から導かれる文脈、すなわち、
曹操の後継者をめぐる曹氏兄弟の緊張関係の顛末(首謀者の丁氏兄弟を誅殺)が、
先行的に記されたものと見られます。

曹丕が弟たちに封土へ赴くよう命じたのは、
おそらく、史実としては、曹丕が魏王となってすぐのことだったのでしょう。
けれども、「責躬詩」ではそれが、魏王朝の成立後のこととして詠じられています。
曹植はなぜ、このような構成に組み替えたのでしょうか。

それとも、「責躬詩」は、史料には記されていない事実を詠じているのであって、
曹丕は魏の文帝として即位して後、改めてこの命を下したのでしょうか。

2021年12月29日

*「北河之上」が、具体的にどこを指すかは未詳。220年当時、曹植は臨淄侯として当地にあったと思われるが、臨淄は、黄河のほとりと言うにはやや南方へ外れている。趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.208には、(史書には記述がないと指摘した上で)鄄城を指すとする。