曹植「責躬詩」への疑問4
こんにちは。
今日も曹植「責躬詩」への疑問を記します。
こちらの27・28行目「煢煢僕夫、于彼冀方。嗟余小子、乃罹斯殃」について。
まず、「斯(こ)の殃(わざわい)」とは、昨日述べたとおり、
東郡太守王機らの誣告により、朝廷に罪を得たことを指すでしょう。
それは「枉げて誣白する所」(曹植「黄初六年令」)であったがゆえに、
この災禍に「罹る」と表現されているのだと思われます。
その結果、曹植は「煢煢たる僕夫と、彼の冀方に于(ゆ)く」こととなったのです。
では、ここにいう「冀方」とはどこを指すのでしょうか。
それは、魏王朝が成立して新しく都が置かれた洛陽を指すと考えられます。
(『尚書』五子之歌を踏まえてこう判断できます。詳細は訳注稿をご覧ください。)
けれども、『文選』李善注は次のとおり、
「冀方」は、冀州に属する、魏王国の都であった鄴を指すとしています。
植集曰、詔云、知到延津、遂復来。求出猟表曰、臣自招罪舋、徙居京師、待罪南宮。
然植雖封安郷侯、猶住冀州也。時魏都鄴。鄴、冀州之境也。
植集に曰く、
詔に云ふ「延津に到るを知りて、遂に復た来たる」と。
出猟を求むる表に曰く「臣は自ら罪舋を招き、居を京師に徙して、罪を南宮に待つ」と。
然れば植は安郷侯に封ぜらると雖も、猶ほ冀州に住むなり。
時に魏は鄴に都す。鄴は、冀州の境なり。
「延津」とは、曹植が異例の措置として罪を減ぜられ、安郷侯に封ぜられた場所です。
(詳細は、訳注稿の「違彼執憲、哀予小臣」の語釈をご参照ください。)
この李善注のうち、次の点が私にはまだ理解できていません。
・「詔」の内容が理解できない。特に末尾には何か欠落があるのではないかと疑われる。
・「詔」と「求出猟表」とはどのような関係にあるのか。
・「求出猟表」にいう「京師」「南宮」を、李善はなぜ鄴だと判断したのか。
・李善は「時に魏は鄴に都す」としているが、この判断の根拠は何か。
なお、前掲の“「冀方」とは洛陽をいう”の説は、
李善が、上記の注に続けて、「一に云ふ」として引くものです。
他方、黄節『曹子建詩註』もまた、
別紙に示すとおり、「冀方」とは鄴をいうとしています。
「冀」という文字はすなわち「冀州」を指しているのだという前提に立って、
あとは、行政地理上、「鄴」が「冀州」に属するということを示しているだけです。
民国時代の黄節も、唐代の李善も、
深い学識に基づく的確な注釈で読者を導いてくれますが、
このたびの「冀方」に対する解釈には、納得することができませんでした。
ただ、「冀方」が魏王朝の新しい都洛陽を指すのだとしても、
曹植はなぜこのような言い方をしたのか、判然としているわけではありません。
2022年1月3日