曹植「責躬詩」への疑問6
こんにちは。
昨日検討したとおり、
こちらのファイルの29行目以降には、
彼が鄄城侯から鄄城王に爵位を進められたことが詠じられています。
ところが、この後に続く35・36行目、
「咨我小子、頑凶是嬰。逝慙陵墓、存愧闕庭」という句が見えています。
(訓み下し等については、こちらの訳注稿をご覧ください。)
これは、鄄城王となって後、また何らかの罪を犯したということなのでしょうか。
「黄初六年令」に記されたところでは、
鄄城王に任命されて帰国後、黄初四年(223)に雍丘王へ移るまでの足掛け二年間、
蟄居して、東郡太守の王機らも罪状を挙げられなかったとあります。
このことは、「上責躬応詔詩表」の中にも、
「臣自抱釁帰藩、刻肌刻骨、追思罪戻、昼分而食、夜分而寝」と述べられていました。
(訓み下し等については、こちらの訳注稿をご覧ください。)
けれども、その後のことについて、「黄初六年令」にこうあります。
及到雍、又為監官所挙、亦以紛若、於今復三年矣。
雍丘に至ってから、再び監国官に落ち度を検挙されて、このことでも混乱を来たし、
今(黄初六年の現時点)に至るまでまた三年が経過した。
曹植が雍丘王に移されたのは、
『魏志』巻19・陳思王植伝の記述によれば、
黄初四年、曹植や曹彰、曹彪ら兄弟が朝廷に参内した直前のことです。
すると、前掲の「責躬詩」にいう「咨我小子、頑凶是嬰」とは、
「黄初六年令」にいう「雍に到るに及びて、又た監官の挙ぐる所と為る」でしょうか。
それとも、曹植が自己認識として「頑凶」だと言っているだけなのか、
あるいはその両方でしょうか。
『魏志』本伝の裴松之注に引く『魏略』に、
「初植未到関、自念有過、宜当謝帝……
(初め植未だ関に到らざるとき、自ら過有るを念じ、宜しく当に帝に謝すべしとす……)」
とあることからすれば、
曹植は自主的に、文帝曹丕に謝罪したいと考えたように感じられます。
2022年1月5日