曹植「雑詩六首」に対する李善注
曹植の作った「雑詩」と呼び得る作品は、
そのうちの五首が、『玉台新詠』巻2に収載されています。
ところが、この「雑詩五首」のうち、
其一「明月照高楼」は、『文選』では巻23に「七哀詩」として採られ、
其三「微陰翳陽景」は、『文選』巻29に「情詩」として収載されています。
(このことは、すでにこちらでも述べました。)
一方、『文選』所収「雑詩六首」には含まれない、
『玉台新詠』所収「雑詩五首」の其四「攬衣出中閨」詩は、
『藝文類聚』巻32に「魏陳王曹植詩」として引かれ、
その後に「又曰」として前掲の「明月照高楼」「西北有織婦」が続いています。
ということは、六朝末から初唐にかけての時代、
曹植のこれらの作品を包括して「雑詩」と捉える見方がたしかにあったのでしょう。
ですが『文選』は、曹植の「七哀詩」「雑詩」「情詩」を区別しています。
これは、『文選』が拠った先行する選集がそうであったということを意味します。
ではなぜ、それらの選集は、曹植のこの種の作品をこのように括っていたのでしょうか。
このことを探る上で、手掛かりになるかもしれないのが、
「雑詩六首」について、『文選』李善注に記された次のようなコメントです。
此六篇、並託喩傷政急、朋友道絶、賢人為人窃勢。
別京已後、在郢城思郷而作。
此の六篇は、並びに託喩して傷む、
政の急にして、朋友は道絶え、賢人は人の勢を窃(ぬす)むところと為るを。
京(洛陽)に別れて已後、郢城(鄄城)に在りて郷を思ひて作るなり。
ここにいう「郷」は、狭い意味での郷里ではなく、
仲間、ともがらを喩える語としてと捉えるのが妥当でしょう。*1
李善はこのように、
「雑詩六首」はすべて、現王朝に対する批判を婉曲に表現しており、
曹植が洛陽から鄄城に帰還して後に、朋輩を思って作った詩群だと捉えています。
ただ、この李善注に対しては、
清の胡克家が次のように疑義を呈しています(『文選考異』巻5)。
案此三十字、於善注例不類、必亦并善於五臣而如此。
其中兼多譌錯、各本尽同、無可校正。
何校、郢改鄄。陳同。
案ずるに此の三十字、善注の例に類せず、必ずや亦た善を五臣に并せて此くの如し。
其の中には兼ねて譌錯多きも、各本尽く同じければ、校正す可き無し。
何(何焯)が校は、郢を鄄に改む。陳(陳景雲)同じ。
前掲の李善注について、胡克家はこのように、
李善注を五臣注と併せた際に、このような注が李善注に混入したと見ています。
けれども、先行研究によると、五臣注本系テキストには題注はなく、
だとすれば、前掲の胡克家の見方は成り立たないとの指摘が為されています。*2
もしかしたらこれは、李善の子、李邕の注記である可能性もあります。
李邕による『文選』注は、父のそれとは異なって、
「事に附して義を見(あらは)す」(『新唐書』巻202・文芸伝中)ものであり、
李善もこれを否定し去ることができず、両注は並び行われたといいます。*3
唐代初期には、私達には目睹できない資料もあったはずですから、
通常の体例とは異なるこの李善注も、何らかの根拠を持っていたのかもしれません。
2024年4月22日
*1『礼記』緇衣に「君子之朋友有郷、其悪有方(君子の朋友には郷有り、其の悪には方有り)」、鄭玄注に「郷・方、喩輩類也(郷・方は、輩類を喩ふるなり)」と。
*2 兪紹初・劉群棟・王翠紅点校『新校訂六家注文選』(鄭州大学出版社、2013年)p.1897の校勘記を参照。
*3 岡村繁「『文選集注』と宋明版行の李善注」(『加賀博士退官記念中国文史哲学論集』1979年、講談社)、「『文選』李善注の編修過程―その緯書引用の仕方を例として―」(『東方学会創立四十周年記念東方学論集』1987年、東方学会)を参照。両論文とも、岡村繁『文選の研究』(1999年、岩波書店)に収載。