曹植と嵆康との接点
こんばんは。
曹植の「名都篇」(『文選』巻27)に、
「鳴儔嘯匹侶(儔に鳴じ、匹侶に嘯く)」という句があります。
「鳴」や「嘯(うそぶく)」といった動詞が、
「儔(とも)」や「匹侶(なかま)」を目的語としていることに、
あまり見慣れないような感じを受けて立ち止まりましたが、
この表現について、李善は特に注してはいません。
他方、これとよく似た表現が、
同じ曹植の「洛神賦」(『文選』巻19)にも、
「命儔嘯侶(儔に命じ侶に嘯く)」と見えています。
こちらにも、『文選』李善注は特に何も語釈を施してはいません。
ということは、こうした表現は、先行作品を踏まえたのではない、
曹植独自のものだと言えるかもしれません。
それが、嵆康「贈秀才入軍詩十九首」其二(『詩紀』巻18)に、
「鴛鴦于飛、嘯侶命儔(鴛鴦 于(ここ)に飛び、侶に嘯き儔に命ず)」
と踏まえられています。
今、踏まえられている、と思わず書いてしまったのですが、
おそらく、そう言ってもよいだろうと思われます。
現存する作品を見る限り、
この表現は、曹植以前には見当たらず、
それ以降の時代においても、用例が極めて少ないから、
つまり、それほどありふれた表現ではなさそうだと言えるからです。
このほかにも、
曹植の「責躬詩」(『文選』巻20)にいう、
「遅奉聖顔、如渇如飢(聖顔を奉ぜんと遅(ねが)ふこと、渇するが如く飢うるが如し)」が、
嵆康「贈秀才入軍五首」其三(『文選』巻24)に、
「思我良朋、如渇如飢(我が良朋を思ふこと、渇するが如く飢うるが如し)」と、
踏まえられている事例を認めることができます。
(このことは、すでにこちらの学術論文№43で言及しています。)
これらは、必ずしも偶然の類似とは言い切れないのではないか、
二人は何らかの直接的な縁で結ばれていたのではないか、と思えてなりません。
このことについては、明日につないで考察します。
2021年6月29日