曹植と西晋宮廷文人たち

こんばんは。

以前こちらで言及した応貞「晋武帝華林園集詩」(『文選』巻20)に、
次のような表現が見えていました。

玄沢滂流  玄沢 滂(あまね)く流れ、
仁風潛扇  仁風 潛(ひそ)かに扇(あふ)ぐ。

これは、李善注にも指摘するとおり、
曹植の「責躬詩」にいう次の表現を明らかに踏まえています。

玄化滂流  玄化 滂(あまね)く流れ、
荒服来王  荒服 来王す。

いずれも、自然に恩沢を敷き広げる為政者の善政をいうもので、
文脈を踏まえた上での辞句の援用だと言えます。

また、『宋書』楽志二所収の、西晋王朝の宮廷歌謡、
成公綏「晋四箱歌十六篇・雅楽正旦大会行礼詩十五章」其四にいう

嘉禾生 穂盈箱  嘉禾生じ、穂は箱に盈つ。

これは、曹植「魏徳論謳」(『藝文類聚』巻85)にいう

猗猗嘉禾 惟穀之精  猗猗たる嘉禾は、惟れ穀の精なり。
其洪盈箱 協穂殊茎  其れ洪(おお)いに箱に盈ち、穂を協(あは)せ茎を殊にす。

を踏まえているでしょう。
「嘉禾」と「盈箱」とをセットで援用しているのですから。

西晋王朝の宮廷文人たちと曹植とは、
意外に強い結びつきを持っていたのかもしれません。
そうした事例は、
これまでに何度か言及したことがありますが、
前掲の表現もこれに加えることができそうです。

なお、こうした気づきは、こちらの共同研究によって得られたものです。

2022年10月13日