曹植の父へのまなざしと自己認識
こんばんは。
曹植「責躬詩」(『文選』巻20)は、
兄の文帝曹丕に対する詫び状的な詩であるにもかかわらず、
その冒頭は、多く父曹操の偉業を称揚する表現に当てられています。
そして、その中に次のような辞句が見えています。
朱旗所払 朱旗の払ふ所、
九土披攘 九土[中国全土]は披(ひら)き攘(はら)はる。
「朱旗」とは、五行でいう火徳を有する漢王朝の旗を言います。
曹操は生涯、後漢王朝の臣下という立場を貫いたので、朱色の旗を用いるのは当然です。
このような身の振り方は、最後まで殷に仕えた周文王を彷彿とさせるものです。
(かつて日々雑記のこちらやこちらで言及したことがあります。)
興味深いのは、これと非常によく似た表現が、
漢の高祖劉邦を称賛する、曹植の「漢高帝賛」(『曹集詮評』巻6)にも、
「朱旗既抗、九野披攘(朱旗既に抗がり、九野は披き攘はる)」と見えていることです。
単語レベルにとどまらず、語の組み合わせ方からしても酷似しています。
ここに見える語の連なりは、他の作家・作品ではあまり見かけないものです。
黄初四年の曹植の中では、曹操と前漢の高祖劉邦とは重なり合っていたのでしょうか。
もちろん、曹操を周文王になぞらえるという、
曹植の他作品に顕著な表現は、この「責躬詩」の中にも認められます。
けれども、上記の二句があまりにも似ていたものですから、
もしかしたらこの時期、曹植の中ではまだ、
父曹操のイメージが定まっていなかったのかもしれないと思いました。
それは同時に、曹植が自身を、魏王朝における周公旦だと位置付けるのは、
もう少し先だということをも意味するかもしれません。
2021年10月18日