曹植の臨淄への赴任時期(再び追記)
こんばんは。
曹植が封土の臨淄に赴いた時期について、
以前にも何度かこの場で検討したことがあります。
今日は再びその追記です。
曹植「責躬詩」(『文選』巻20)には、
「帝曰爾侯、君茲青土(帝曰く 爾 侯よ、茲の青土に君たれと)」とあり、
その前には「受禅于漢、君臨万邦(禅りを漢に受け、万邦に君臨す)」とありました。
ここに、言葉を発した者を「帝」と称し、
その前に“漢より禅譲され、万国に君臨した”とあることから、
曹植に臨淄へ赴くように命じたのは、魏王としての曹丕ではなく、
後漢の禅譲を受け、魏の文帝として即位した曹丕なのだと判断されます。
けれども、多くの先行研究では、それを、
曹操の跡を継いで魏王であった時期の曹丕だとしています。
(こちらの訳注稿でも、まだ修正しておりません。)
曹丕は、魏王となった同じ年の220年10月、魏の文帝に即位しましたから、
いずれの説を取っても、時期的にそれほど大きな差が生じるわけではありません。
ただ、この問題は、同時期の他の曹植作品の成立背景とも関わってくるので、
いちど明らかにしておきたいと考えていました。
そこで、今回はひとつ、次のような判断材料を示しておきたいと思います。
前掲「責躬詩」にいう「帝曰爾侯、君茲青土」が踏まえる史実として、
曹植「諫取諸国士息表」(『三国志(魏志)』陳思王植伝裴注引『魏略』)に、
以下のような記述が見えています(こちらの訳注稿に指摘)。
臣初受封、策書曰、
「植受茲青社。封於東土、以屏翰皇家、為魏藩輔。」
……而名為魏東藩、使屏王室、臣窃自羞矣。
わたくしが初めて封土を賜ったとき、任命書にこうあった。
「曹植よ、この青き東方の社を引き受けよ。
そなたに東方の土地を授けて、曹氏を守り魏朝を補佐する藩国とする。」
……ですが、名は魏の東方の藩国として、王室を守るよう求められていましたが、
(劣悪な体制で、藩国としての働きを為すことは困難であったため)
わたくしはひそかにこのことを恥ずかしく思っておりました。
この文章にいう「策書」は、皇帝が発布するものです。
また「皇家」「王家」は、王朝を構成する曹魏一族を指して言うのであって、
後漢王朝の配下にある魏王国に対しては使えないはずの言葉です。
それに、そもそも藩国を置くことができるのは王朝だけではないでしょうか。
その初め、曹植が臨淄侯を拝命したのも後漢王朝からでした。
後に、後漢王朝から天子の位を譲り受けた曹丕は、
かつて後漢王朝が曹植を「臨淄侯」に任命したことを引き取って、
自らの手で任命しなおし、実質的な侯として任地に赴かせたということでしょう。
この「諫取諸国士息表」に見える記述からも、
曹植が、曹丕に命じられて封土の臨淄に赴いたのは、
魏王朝が成立した220年の末頃と見るのが最も妥当だと言えます。
そして、それ以前の曹植はなお、魏王国の都、鄴にいたということになるでしょう。
2022年6月22日