曹植の臨淄への赴任時期(追記)
こんばんは。
曹植が臨淄侯としてその封土へ赴任した時期は、
彼の「責躬詩」には、魏が後漢王朝の禅譲を受けた後だと明示されていました。
ところが、従来の多くの説では、
曹植らが魏の都を離れて各々の任地へ赴いたのは、
曹丕が曹操亡き後を受けて魏王に即位して間もなくのことであったとしています。
さしあたり手元にあったところでは、
張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)p.173―174
江竹虚撰・江宏整理『曹植年譜』(台湾商務印書館、2013年)p.213―214
邢培順『曹植文学研究』(中国社会科学出版社、2014年)p.45
徐公持『曹植年譜考証(中国社会科学院老年学者文庫)』(社会科学文献出版社、2016年)p.255―256
のいずれもが、曹植の臨淄への赴任を、
曹丕が魏王に即位した年、魏王朝成立以前の時点に繋年しています。
この説は、前掲の「責躬詩」に言うところと矛盾しています。
一方、曹植作品の主だった注釈書、
古直『曹子建詩箋』(広文書局、1976年三版)
黄節註・葉菊生校訂『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)
曹海東注訳・蕭麗華校閲『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)
王巍『曹植集校注』(河北教育出版社、2013年)の中で、
「責躬詩」に関するこの矛盾点に言及するものはひとつもありません。
また、先日取り上げた「請祭先王表」について、
これが、曹植がまだ鄴にいた時の作である可能性に触れたものもありません。
突然の無風状態。
どういうわけなのか、腑に落ちません。
もしかしたらまた勘違いをしているのかもしれません。
2022年1月12日