曹植の読んだ『詩経』
こんばんは。
以前、こちらで言及したことのある四種類の『詩経』、
曹植はこのうちの韓詩に拠ったとされていることは先にも述べましたが、
本日、その明らかな事例に行き当たったのでメモをしておきます。
(なお、このことは黄節『曹子建詩註』巻1がすでに指摘しています。)
それは、「令禽悪鳥論」(丁晏『曹集詮評』巻9)という作品で、
この中に、『詩経』王風「黍離」について、次のような言及が見えています。
昔尹吉甫用後妻之讒、而殺孝子伯奇。
其弟伯封求而不得、作黍離之詩。
その昔、尹吉甫が後妻の讒言を取り上げて、孝子の伯奇を殺した。
その弟の伯封は求めて得られず、黍離の詩を作った。*
この1行目のエピソードの方はよく知られていて、
たとえば『琴操』巻上「履霜操」などにその詳細を見ることができます。
ですが、肝心の2行目、伯封の事績についてはよくわかりません。
彼は尹吉甫の後妻の子とされていて、兄思いの人という人物像ではなさそうですが。
ともかくも、曹植はこのように記していて、
「黍離」という詩に対するこのような捉え方は、
前述の三家詩のうちの、韓詩の説なのだということです。*
(王先謙『詩三家義集疏』巻4を参照。)
さて、曹植「情詩」は、この『詩経』王風「黍離」を次のように引用します。
遊子歎黍離 旅ゆく者は嘆きつつ「黍離」の詩を詠じ、
処者歌式微 家で待つ者は「式微」(『詩経』邶風)の詩を歌う。
前述のことを指摘する黄節は、それに依拠して更に説を展開し、
曹植のこの詩は、兄の曹彰が亡くなったことを悼む趣旨で作られたものであり、
その成立は、「贈白馬王彪」詩とほぼ同時期だと推定しています。
もしそうであるならば面白いですが、本当にそう見ることができるか。
「情詩」を構成する他の部分との関わりの中で、前掲の対句も捉えなければと思います。
2020年7月2日
* 曹植の記述が韓詩に基づくことは、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)、清・馬国翰『玉函山房輯佚書』の手引きにより、以下の文献から確認できた。『太平御覧』巻469に引く『韓詩』に「黍離、伯封作也。彼黍離離、彼稷之苗。離離黍貌也。詩人求亡不得、憂懣不識於物、視黍離離然、憂甚之時、反以為稷之苗、乃自知憂之甚也(黍離は、伯封の作なり。彼の黍離離たり、彼の稷之れ苗なり、と。離離とは黍の貌なり。詩人は亡を求めて得ず、憂懣もて物を識せず、黍の離離然たるを視て、憂ひの甚しきの時、反って以て稷の苗と為し、乃ち自ら憂ひの甚しきを知るなり)」、また、『太平御覧』巻842に引く『韓詩外伝』薛君注に「詩人求己兄不得、憂不識物、視彼黍乃以為稷(詩人は己が兄を求めて得られず、憂ひもて物を識せず、彼の黍を視て乃ち以て稷と為す)」と。(2020.07.03、2020.07.05)