楽府詩「怨歌行」の作者

為君既不易  君主であることはもちろん容易くないが、
為臣良独難  臣下であることは実にひとえに困難なことである。

このように歌い起こす曹植の「怨歌行」は、
周公旦の成王輔佐を例に、臣下として誠意を通すことの困難を詠じています。

周公旦については、以前こちらでも触れましたが
この人物と曹植との間には、その境遇に似通ったところがあります。*1
ですから、この作品を通して、曹植その人に一歩近づけるのではないかと期待できます。

ところが、この楽府詩の作者については、古来さまざまな説があって、
この問題を抜きにしては先へ進むことができません。*2
そこで、いずれの説がより妥当なのか、改めて検討してみました。

この「怨歌行」を曹植の作とするのは、『藝文類聚』巻41、『楽府詩集』巻42です。
(これらの資料の信憑性については過日触れたところです。)
両文献とも、その全22句を採録しています。

これを「魏文帝詩」とするのは『北堂書鈔』巻29で、引用は冒頭の2句のみです。
また、『太平御覧』巻621は「古詩」として同じ2句を引いています。

他方、『楽府詩集』巻41「怨詩行」に引かれた諸文献では、
『古今楽録』に引く王僧虔「技録」に「荀録に載せる所の古「為君」一篇、今は伝わらず」、
『楽府解題』に「古詞に云ふ「為君既不易、為臣良独難」は、周公は推心輔政するも、二叔は流言し、雷雨伐木の変有るを致すを言ふ……」といい、
これらの文献では作者不明の古辞となっています。*3

前掲の「怨歌行」冒頭の二句は、『論語』子路篇に引かれた「人の言」、
「為君難、為臣不易(君為ること難く、臣為ること易からず)」を踏まえていますから、
もしかしたら、この部分のみ、諺的フレーズとして流布していた可能性もあります。

こうしてみると、「怨歌行」の全文を引く古い文献は曹植の作とし、
冒頭の二句のみを引く文献は、曹植以外の作者としている。
以上から、「怨歌行」の作者は、曹植と見ることが最も妥当だと言ってよいでしょう。

なお、明代の『古詩紀』が、上記の「技録」等に従って古辞とすることは措いておきます。

それではまた。

2020年2月3日

*1 矢田博士「境遇類似による希望と絶望―曹植における周公旦及び屈原の意味」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊文学・芸術学編19、1993)を複写依頼中。
*2 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.172~173に論及があるが、決定的な論拠が示されているわけではない。
*3 楽府詩に関する諸文献の成立年代などについては、こちらの資料「楽府関係年表」を参照されたい。

※「怨歌行・為君」の作者については、曹道衡「論『文選』中楽府詩的幾個問題」(『国学研究』第3巻、1995年)に論及がありました。曹道衡氏の所論では、この楽府詩を曹植の作とすることに懐疑的です。(2020.04.03追記)