魏王朝と周王朝

過日も言及した、曹操の「薤露」に由来する曹植「惟漢行」は、
その末尾に次のような句を連ねています

17 在昔懐帝京  在昔 帝京を懐ひ、
18 日昃不敢寧  日の昃(かたむ)くまで敢て寧(やす)まず。
19 済済在公朝  済済たる 公朝に在りて、
20 万載馳其名   万載 其の名を馳す。

18句目は、『書経』無逸に見える次の句を踏まえています。

自朝至于日中昃、不遑暇食、用咸和万民。
朝から日没まで、食事をする暇もなく働いて、それで万民を和らげた。

これは、周の文王(西伯昌)のことを記したものです。

19句目は、『詩経』大雅「文王」にいう次の句を踏まえています。
これも、その詩題が示すとおり、周文王にまつわるものです。

済済多士、文王以寧。
厳かに居並んだ臣下たち、文王の御霊もこれで安心だ。

このように、曹植「惟漢行」は、周文王を想起させる辞句で一篇を結んでいます。

そこで改めて思うのが、魏王朝と周王朝との重なりです。

周文王(西伯昌)は、自身は大きな勢力を持ちながらも殷王朝に仕え、
その子の発(周武王)が、殷の紂を討って周を立てました。

魏の武帝曹操も、後漢王朝の臣下としての立場を全うし、
子の曹丕が、後漢から禅譲を受けて、魏の文帝として即位しました。

すると、曹植が父曹操を想いつつこの楽府詩を詠じていることは確実でしょう。
そもそもその楽府題が曹操「薤露」から取ったものでした。

他方、魏王朝と周王朝とは異なっている部分もあります。

周は、初代の武王が亡くなった後、その子が成王として即位すると、
武王の弟である周公旦が、幼い成王を補佐しました。

魏の明帝曹叡と曹植とは、この成王と周公旦との関係に等しい。
けれども、曹植は生涯、皇室の一員として王朝のために働くことはできませんでした。

それではまた。

2019年12月19日