歴史故事を歌う葬送歌
曹植がその画賛で取り上げた「二桃殺三士」の故事は、
語り物もしくは歌舞劇として、宴席でも上演されていたと推測されるものでした。
(こちらを再度ご参照ください。)
漢代画像石には、凡そそのクライマックスシーンが描かれています。
曹植が目睹して賛を寄せた図像にも、これと同じ場面が示されていたでしょう。
さて、先日も触れたとおり、
楽府詩「梁甫吟」にも、同じ故事が次のように詠じられています。
歩出斉城門 斉の城門を歩み出て、
遥望蕩陰里 遥かかなたに蕩陰里を望む。
里中有三墳 里の中には三つの墳墓があって、
累累正相似 重なり合うそれらは実によく似た様子をしている。
問是誰家冢 これらはどちら様の墳墓でしょうか、とたずねてみれば、
田疆古冶子 田開疆や古冶子ら(公孫接も言外に含めて)の墓だという。
力能排南山 彼らの力は、斉の南山をも押しやるほど強く、
文能絶地理 その文徳は、地表を文様づける山川をも凌いで卓絶していた。
一朝被讒言 それなのに、ある日讒言を被って、
二桃殺三士 二つの桃が三人の勇士を殺すという結末となった。
誰能為此謀 いったい誰がこのような謀略を構えることができたかというと、
国相斉晏子 それは斉国の宰相、晏子である。
「梁甫」とは、泰山のふもとにある山の名で、死者がこの山に葬られることから、
「梁甫吟」は送葬歌だと言えます。(『楽府詩集』巻41)
すると、前掲の「梁甫吟」は、葬送曲のメロディに載せて、
故事「二桃殺三士」の後日談を詠じた楽府詩だということになるでしょう。
葬送歌は、当時の宴席で広く行われていました。
たとえば、応劭『風俗通義』(『続漢書』五行志一に引く)には、
後漢の霊帝期(167―189)頃のこととして、次のような記述が見えています。
時京師賓婚嘉会、皆作魁儡、酒酣之後、續以挽歌。
当時、都のおめでたい宴では、どこでも人形劇が上演され、
酒たけなわとなると、続いて挽歌が歌われた。
こうしてみると、楽府詩「梁甫吟」成立の場は、宴席であったと推測できます。
故事「二桃殺三士」も、「梁甫吟」のメロディも、そうした場で行われていましたから、
両者が出会って何かを生み出すとすれば、それは宴席においてであったと見るのが最も妥当です。
曹植が賛を寄せた図像は、
「二桃殺三士」のクライマックスシーンを描くものであり、
こうした歴史故事は、当時の宴席で盛んに上演されていたと推測されるのでしたが、
「梁甫吟」歌辞の作者が眼前にしていたのもまた、同様な芸能であったのだろうと推測できます。
それではまた。
2019年12月3日